畑のつぶやき

畑や田んぼの作物の生育や農作業の報告
農家の暮らしの日記
田畑を取り巻く自然の移ろいの描写
食、農への思い

20年後には

2023-06-19 18:41:09 | 農業の事

6月19日(月)

農業を見向きもせず、関心も示さなかった20年ほどの間に、現場は大きく変わっていた。

田畑を耕す道具は、人力や畜力から、ジーゼルエンジンや、ガソリンエンジンで走行し、駆動するロータリー付きの耕運機をどの農家も使用していた。規模を大きく経営している農家は、乗用式のトラクターを所有している。ガソリンエンジンが改良され、普及してより小型の耕運機が広まったようだ。少し前までは、耕運機の作業機として、鋤(プラウ)で越智を起こし、馬鍬を引いて裂土、代掻きをしたと聞いたが、すでに、プラウとロータリーを使用していた。

数年の地には、プラウはあまり使われなくなり、ジーゼルエンジンの大きなロータリー耕運機が主と泣てきた。同時に、トラクターもぼちぼちとみられるようになってきた。

田植えも手うえはほとんど見られず、主に二条植えの田植え機がほとんどの農家にあり、苗も、ハウス内育苗の稚苗箱苗になっていた。肥料はほとんど、設計された粒状の化学肥料。施肥もほとんど、20㎏の粒状肥料が入る背負い式の動力散布機。田の草取りはほぼすべて除草剤。畔草刈りは、刈払機を使用する。そして、稲刈りはバインダーという機械を使用するようになっていた。稲を刈り取り束ねて縛ることまでする機械だ。その稲束を架け干しして、脱穀する。脱穀機は、ハーベスターといい、エンジン付きの自走脱穀機で、脱穀しながら風選して藁クズなどの軽いごみを飛ばし、モミを選別して、袋詰めまでする機械だ。

このように、米つくりは、完全な機械化が浸透していた。

 

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出発

2023-06-18 18:14:23 | 農業の事

6月18日(日)

【一日、共同作業。午前中は宮薙ぎ。午後は寺の草刈り、清掃。刈払機を背負い、疲れる。実働は、3時間ほどのものだが。】

移住してすぐに、米つくりは始まった。土地購入時に世話になった農家の紹介で、10aほどの田んぼを借りることになった。同時に、水道工事店でのアルバイトも紹介され、その世話で、中古の耕運機も購入した。全く経験のない耕運機、田んぼを耕すことも、代掻きのことも初めての経験。知らない上の怖いもの知らずで、いろいろ失敗も多かった。近所の農家にも助けられ、見よう見まねでの米つくりだった。

畑は家の敷地で、500坪くらいから始める。杉の間伐材を柱に、小さな鶏小屋も自作した。20羽ほどの雛を購入して、採卵鶏の飼育も始めた。やはりしばらくは、全く農業収入はなく、配管職人の収入と、自作による農業施設つくりと、中古農機での、田畑作業がしばらく続くことになる。田んぼや畑は、少しばかり遠かったり、段々の棚田だったりだが、二年目からは、5~6反ほどを耕作することになった。鶏も、100羽くらいの飼育になり、少しは、農業収入もできるようになった。

しかし、とても、生活できるほどでなく、職人の賃金が主だった。田植えと、稲刈りの農繁期には、まとめて休み。それ以外は、週に4~5日は配管工、2~3日は農業に従事。重労働や、機械を使う作業を主にやった。鶏の世話と、畑の日常管理は連れ合いと、分業体制ができ、長いことそれは続いた。

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準備ー土地と住い

2023-06-17 17:54:38 | 農業の事

6月17日(土)

移住前の一年は、配管の技術を身に着けることと同時に、移住して住む場所、農地をどうするかということに時間を取られた。これまでの数年間、友人たちと共同で、房総半島の山間に土地を購入し、簡単なプレハブハウスを建て、休日の田舎暮らし的なことをやっていた。その場所からそう遠くないことを条件に、土地を探した。ちょうど、バブルのころでもあり、価格は高く、不動産業者も、いろいろだった。何か所もの土地を見て回ったが、田畑をやれるような広い面積付きの土地は、なかなか手が付けられず、焦る気持ちにもなった。

知り合った、地元の土地ブローカーをやっている農家の人の意見も聞いて、とりあえずは生活拠点の住まいや、作業場などを確保できるほどの土地を購入した。このブローカーをやってる人とは、その後もずっと付き合い、いろいろ相談に乗ってもらったり、助けてももらってきた。

秋には、土地の整地も終え、地元の工務店に建築を依頼する。当然、給排水工事は、自分で通いで行った。よく、1983年2月、住宅完成。3月、移住。

引き返すことのできない、農的生活の始まりだ。

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準備ー配管職人へ

2023-06-16 18:16:05 | 農業の事

6月16日(金)

【梅雨の中休みの晴天。一気に夏がやってきた。田んぼの畔草刈り。モアでの作業は終わった。私にしては早めの一回目の草刈りだ。】

1982年。ミカン農家での実質60日ほどの体験で、肉体的には、農業の生活に飛び込んでも、やっていけるだろうとの結論を得た。そして、具体的な移住の準備を本格的に始めた。

移住して農業を始めても、すぐに農業で生活できるようにはなるはずはない。最初は自給ぐらいを目標に、生活費は別途得る方向を選ぶことにする。幸い、建築設備会社に勤めていたから、水道なども住宅設備は専門だ。仕事は現場管理だったから、実際の工事は、直接はやっていなかったが、段取りなど、大筋はよくわかる。そこで、実際の配管工の技術を身に着けることにして、知り合いの職人に頼み、アルバイトという形で、雇ってもらうことにした。約一年間、その職人にやとわれ、現場仕事をやらせてもらった。これは、大正解だった。移住してすぐに、ガス、水道の設備店で、日雇いの職人として、働き、収入を得ることができた。

 

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準備ー農業体験

2023-06-15 17:40:03 | 暮らし

6月15日(木)

高卒後、浪人生活は、夏までは自宅で、予備校の夏期講習からは東京へ出てきた。一浪の後、合格し、学生生活。年一二度は帰省することはあったと思うが、農業からは全く離れていた。いろいろとあった20年ほどの生活を経て、1980年ころになり、東京生活からの脱出を計画することになり、ようやく、再び、農業を身近にすることになった。

1981年9月、10年近く務めた建築設備会社を退社した。連れ合いの母の兄は、静岡県でかなり大きなミカン農家をやっていた。農業を全くやっていない30代の人間が、果たして農業をやれる身体なのか、やってみなければわからないと、温州ミカンの収穫期に当たる秋に、住み込みで働かせてもらうことにした。10月から年内いっぱい、実質二か月くらいの農業体験生活を始めた。

仕事は、ミカン畑の草刈り、ミカンの収穫、選別整理、貯蔵、施肥、農薬散布などだ。ミカン畑は、里山を切り開いたようなところで、段々畑が続くところ。農道から先の運搬は、モノレールがあるところ、架線を張りロープ―ウェー式に荷を下ろすところ以外は、すべて背負いかごに背負っての運搬だった。草刈りは手鎌、施肥はバケツに肥料を入れて、手での散布。収穫ははさみ。農薬の散布だけは、エンジン式の動力噴霧器を使い、100メートルものホースを引っ張っての作業。

慣れない体にはきつかった。鎌で草を刈ること、収穫したミカンを背負いかごに入れ、30Kgにもなる荷を背負い、段々の急坂を車まで下ること、何往復か。ギブアップなどするかと、意地だけでやり通したようなものだ。が、それを予定通りやり通したことが、その後の移住生活への大きな自信となった。

ここでの農作業も、果樹園ゆへなのか、ほとんどが、人力による作業が主だった。叔父は農協の役員をしていたから、ほぼ毎日、周辺の農家の人たちが、数人、雇われてきていて、私は、その人たちに教わりながら、農作業をしていた。

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さよなら農業

2023-06-13 18:36:33 | 農業の事

6月13日(火)

小学校の高学年になるころには、農繁期休暇もなくなってきたのではないかと思う。中学では、休暇はなかった。中学か、高校に入るころには、魚野川の大規模な河川改修工事が始まり、我が家は、川の土手の内側になることになり、すぐ近くに新たに立て替えて、引越した。その時、我が家の畑を含み、川のすぐそばの河川敷のようなところにあった畑は、すべて国が買収した。畑はなくなった。家屋敷のちょっとした家庭菜園だけになった。

私自身、小学校の高学年になると、農作業の手伝いは気が進まなくなっていた。中学に入ると、部活をやることを口実に、ほとんど手伝わなくなった。泥まみれ、土汚れのきつい作業をやるのが馬鹿らしく、いやになっていた。そのころから、高校に入る、大学を受験したいと、農業や、農村、地方から離れ、都市に行きたいという気持ちが強くなっていた。

だから、この地方の農業が、どのような状態だったのかは、関心がなかったから、ほとんど記憶にない。だから、1960年代に入ったあたりからの魚沼地方の農村の実態についての具体的な記憶は全くと言ってよいほどにない。見向きもしなくなっていたといってよい。

だから、移住を決める1980年代初めまで、20年ほどは、何も見ていなかった、空白の20年間といってよい。

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米選機

2023-06-12 17:33:24 | 暮らし

6月12日(月) 

【やはり梅雨だ。予報では、雨雲はかからず、降ってもパラパラ程度で、傘は開いていなかったが、昼頃から、本降りの雨。午前中畑にちょっと出ただけで、昼からは、ゴロゴロと、寝だめ。】

籾摺りにちょっと付け足し。籾摺り機から出てきた玄米に、もうひと手間必要だった。籾摺り機でも、ほとんど熟していない実などは選別されているが、充分ではない。未熟米や砕けた粒などが混ざっている。そうした不良米をより分けてちゃんとした玄米だけにする作業がある。米選機という機械に通す。子供のころの記憶は、ピアノ線を何本も張ってある傾斜のついたものの上に玄米を流す。ピアノ線の間隔を調整して、基準以上の大きさの玄米は下まで流れ、小粒のものは途中でピアノ線の下に落ちるように調整される。より分けられた未熟米はコゴメ、とかコザキといわれ、いわゆるクズ米だ。

玄米は、作業場にある精米機で、精米し、白米となり、ご飯にたかれる。くず米は、今でこそ、鶏のエサなど、家畜餌とするが、当時の農家では、貴重な食べ物の一つだった。やはり、作業場にあったと記憶する製粉機で粉にする。川土手や、農道わきに自生するヨモギの春先の若芽を摘む。当時の草餅は上新粉などではなく、クズ米の粉だった。未熟玄米を粉にしたようなものだから、糠臭いが、餡を詰めて草団子にして、一服時の茶菓子や、子供たちのおやつとなった。

ヨモギ摘みは、春先の貴重な収穫仕事で、ゼンマイなどの山菜取りと同じで、ゆでて乾燥させ、貯蔵し、一年中使っていた。

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籾摺り

2023-06-11 17:37:36 | 農業の事

6月11日(日)

【夜、かなり降った雨は、明るくなるに従い弱まり、7時過ぎには上がった。共同作業の草刈りだったが、こんな雨上がりだったので、休むことにして、午前中は、のんびりして、午後は、ハウス内の草取りをする。これから数日は、梅雨ながらも、本降りはなさそうなので、しっかり、田畑作業をしたいと思っている。】

米つくりで、一番難しく、大変な作業は、籾摺りだろう。稲にとって、種を残し次代につなぐ命を保護し守る籾をはぎ取る作業だ。ひと時代前は、土臼や木臼で摺り、もみ殻をはがしていたようだが、当時、すでに動力を使う籾摺り機は使われていた。速度の違う回転する二つのゴムロールの間をモミが流れ落ちるとき、その摩擦で、モミがはがされる。軽いもみ殻は、風選により、飛ばされ、重い玄米とより分けられる。モミの大小、乾燥具合などにより、一気に玄米にならずに、玄米と籾の混ざった状態で、流れる。この混合の流れから、玄米を選別する方法が、万石式といわれるものだ。傾斜のついた何枚かの網の上を混合米が流れるとき、玄米と籾に分けられるのだが、これが非常に難しく、コツや経験が必要だ。網の大小や、傾斜具合を調整する技術が必要だった。我が家の籾摺りでは、上手だという人を、」その時だけはお願いしていた。

こうして、ようやく、玄米として、本当の収穫が終了する。モミでの場合の約半分近くの貯蔵スペースで済むし、精米機にかけて、すぐ白米にして、食べられるようになる。

この、籾摺り機だけは、作業場での共同所有のものだけだったと記憶している。

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脱穀

2023-06-10 18:03:29 | 農業の事

6月10日(土)

【雨が降ったりやんだりが続く。出荷作業の後、雨の止み間もあるが、ハウス内の草取りなどで、お茶を濁すだけ。】

秋は乾燥した晴天が続くことがおおい。稲の収穫に適した天候で、田植え後の梅雨といい、こんな天候が、稲作が主の日本の農業を支えて生きた。しかし、作業は集中するので、作業場での脱穀作業の順番取は大変だ。我が家のように少しだけの稲作の場合は、一日もかからないから、ちょっとした隙間に入れてもらえばよい。しかし、脱穀だけで何日もかかるような、規模が大きな農家にとっては、順番待ちは大変だ。集落でも数件の大規模稲作の農家は、自分の家で、脱穀をしていた。作業場にあるのと同じような、脱穀機を所有し、ジーゼルエンジンを動力に使い、家族総出で脱穀作業だ。家の中庭が作業場で、蓆を何枚も敷いて、スペースを作り、稲わらを運ぶかかり、脱穀する係、モミを袋詰めするかかり、藁束を片付ける係、人では、多すぎるということはない。

ちょっと前までは、人力による、足踏み脱穀機が使われていた。外部動力に寄らず、人の足で脱穀胴を回転させ、モミを分離させた。この脱穀機は、私たちも、移住後、不要になったものを譲り受け、大豆の脱穀に使ったことがある。

脱穀された籾は、晴天の日に何回か、蓆の上に広げて、天日乾燥される。そして、袋詰めされ、あるいは、据え付けられている穀入れに収納され、貯蔵される。しかし、これで収穫作業が終わったわけではない。

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作業場ーそして、脱穀

2023-06-09 18:35:59 | 農業の事

6月9日(金)

脱穀は、晴天の日にやることになる。今でこそ、モミの中の玄米の水分を測定して、最適な状態にするが、当時としては、穂の乾き具合、を判断して、脱穀をする。その後、晴天の日に、蓆を広げ、モミを広げて、天日干しをして最適な状態にしていた。とにかく、米つくりは、手間暇のかかる仕事だった。

集落には、作業場があった。二階は集落の集まりに使う、集会場で、一階は共同の作業場。当時、すでに動力の大きなモーターが据えられていた。天井には、いくつものプーリーが取り付けられた鉄筋の回転軸があり、モーターの回転を平ベルトで、軸に伝動されていた。脱穀機、籾摺り機、精米機、製粉機などが据えられており、天井の軸から、それぞれにベルトで回転をつたえるようになっていた。

よく乾いた稲束を稲架から降ろし、作業場に運び、爪のついた胴が回転する脱穀機に、藁の根元をもって、穂先を入れて、藁と籾を分離する。モミは、脱穀機の下に落ちるから、それをかき寄せて、手箕で、袋に入れる。どんな袋か忘れたが、麻袋のようなものだったろう。藁で蓆を編み、それを二つ折りにして、両脇を縫った、カマスと言った大きな袋も使われていた。藁は藁で、貴重な資材として、扱われた。脱穀済みのモミには、藁クズなども混ざっているので、唐箕にかけて、風選で藁クズなどを飛ばして、重い籾を選別した。ここまでやって、ようやく、室内貯蔵ができる状態になる。一段落だ。

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