最近、時間があるはずなのに時間が足りないと感じています。
でも、よーく考えて見ますと、時間を無駄に過ごしているだけかも知れませんね。
ところで、最近、妙に退職した職場のことが気になります。そこで、知り合いに「それとなく」様子を聞いたのですが、まるで、どこかの政党のように一部の人達が活躍しているのが目立っていて、そのほかの多くの人達は「勝手にやれば!」という感じで大いにしらけているようです。これでは、組織はうまく機能しないと思うのですが、実際はどうなのでしょうか?
昔「ああいえば、じょういう」という言葉が流行りましたが、小生が在職して頃には、ともすれば「人の意見など聞かない強引な人」や「言葉が多弁で巧みな人」などが優秀で実績もあると評価される傾向にありました。
さて、今日は、渋沢栄一の「孔子人間、一生の心得」の第3回目をお伝えします。
第三章 【子罕・先進篇】男子一生の”本懐”をどこに求めるか
というものですが、昔の人は、こういうことを真剣に考えていたのですから、気持が引き締まっていて良い時代だったな!と感心してしまいます。この第三章の始めの言葉は、次のようになっています。
1 日々「天命」を味方につけて生かす法!
子罕れに利と命と仁とを言う。[子罕]
この言葉を何と読むか分かりますか?小生などは、「子」の次の言葉を何と読むのか分かりませんでした。幸い「ま」とルビがふってありましたが、その前に、この編の題名が「子罕」となっています。この読みは「しま」ではなく「しかん」だそうです。
この孔子の言葉は、読んで字のごとしで、孔子は、まれに「利」と「命」と「仁」を言う、ということでしょうか?
ではなぜ、孔子は「まれに」しか言わないのかということになるのですが、それを渋沢栄一は、この本で次のように解説しています。
利と命と仁とは人間に絶対に必要なものであるけれども、しばしばこれを多弁にこれを語ればかえって害があるので、孔子はこれを説くのを慎しみ、まれに教えたのである。
『大学』の中にも「利をもって利とせず、義をもって利とす」と書いてある。つまりその利は、義(道理)にかなう利でなければならない。われわれ人間として生きていく上で寸時も欠かせない衣食住の三つは、必ず正当な利によって得なければならない。一人一家のことはもちろん、一村一町一郡一市一県一国を維持する利も同じである。利は同じ利であっても、一歩誤れば私利となり私欲となり、かえって人を害し身を害するものだから、慎重に対応しなければならない。ことに最近は唯物主義が盛んになり、私利私欲をはかる者が多くなったようであるから、さらに気をつけなければならない。
算盤をはじくのは利である。『論語』を読むのは道理である。私はこの「論語」と算盤との二つが並び立ち一致しなければならないと信じていて、『論語』の教訓を処世の信条としている。いま私は後世の青年たちにこの二者が調和両立しなければならない理由を説明するために、この講義をしているのである。よく道徳を守り、私利私欲の観念を超越して、国家社会に尽くす誠意をもって獲得した利益は、真正無垢の利益といえる。
ここでいう命(天命)もまた道徳以上に人が尊重すべき者である。しかし万事を天命任せにして。自分で少しも努力しないのは、「棚から牡丹餅」式の横着な姿勢であって愚の骨頂である。要は「人事を尽くして天命を待つ」という心がけで刻苦勉励し、自らの天地を開拓すべきものである。「棚から牡丹餅」式の天命に頼れば、世の進歩も人の発達もなく、自分は社会の落伍者となってしまう。
とはいっても、また天命を無視し天命に逆らうのもはなはだよろしくない。天命を無視して失敗した例は、ドイツのウィルヘルム二世である。彼は勢いに任せて天命を無視し、中欧にドイツ帝国を建設しようと企てて世界の大動乱を起こして失敗した。
人知を超えた霊妙不可思議な威力
と太字であり、ここから「仁」の説明があるのですが、いささか疲れてきました。
でも、この「仁」を紹介しないと孔子が「まれに」しか「利」と「命」と「仁」を言わなかったのかが分かりませんので、続けたいと思います。
天命というものは、人に知力才能ではコントロールできない霊妙不可思議な威力を備えている。この微妙な霊的感覚の働きが天命である。ただし天命だけにたよって万事を解決しようとするのは無理なことで、すべからく努力して人事を尽くし、そして天命を失わない心がけをもって世を渡らなければならない。
仁には大仁と小仁がある。個人で行える狭い小さな寄付・親切・同情などは小仁で、広く大衆を愛し民を救うような仁政が大仁である。その大と小にかかわらず、孔子を常に仁を大切な道としてこれを説いている。
仁は人間性の基本の徳であって、必ず忠信篤敬、おのれに克ち礼を踏み、自分で考え得るもので、教えてできるものではない。だから弟子たちがいらだって質問してくるのを待つというのが孔子の流儀である。これを多弁で説くとかえって仁を損なうので、孔子はまれにしか説かなかったのである。しかも仁は孔子の教えの核心をなすもので、『論語』全編で仁を説いた箇所は四十余もある。
利・命・仁の三者はみな道理の正しい場合にはこれを説き、また実行するけれども、やたらにこれを説けば害を生じるので、めったには言説しないと言っている。
という長い長い説明でしたが、なぜ孔子が「まれにしか」説かないのか理解できたでしょうか?
利も命も仁もみなとても大事な教えであるが、みな毒のような危険な面をもっているということでしょうか?
例えば、利のことを「国家社会に尽くす誠意をもって獲得した利益は、真正無垢の利益」といってます。でも、考え方としては理解できますが、国家社会への貢献を通じて得るという、いわば「反射的な利益」を資本主義は目的としているのでしょうか?
現代社会は、資本主義によって生み出された利益が投機資金となって、さらなる利益を求めて世界中を駆けめぐっていますが、これによって得た利益は「真正無垢の利益」ではないのでしょうね。
企業にも社会的責任があるという言葉を良く聞きますが、渋沢栄一は、そのことが言いたかったのかも知れません。
こういう本を読んでいますと、考えることが多くなります。