mugifumi日誌

海外旅行の体験のほか園芸、料理などの生活雑感を思いつくままに綴っています。

玄米ご飯と人間の覚悟

2010年03月29日 | 本と雑誌

 今日は五木さんの本が気になって、「人間の覚悟」の第一章から第3章までを一気に読んでしまいました。

 朝餉の準備は、小生の楽しみのようになっていますが、今日は白いご飯がなくなってしまいましたので、かみさんが昨日水で洗っておいた玄米ご飯です。玄米に小豆を加えて玄米と同量プラス半カップの水を加えて圧力釜で炊きあげます。

 これで、3度目の玄米ご飯ですが、2度とも水が多すぎて柔らかくなりすぎて「イマイチだ」と感じていましたので、水の量を減らしたのです。

 

 そして、炊きあがりましたら、レシピにはないのですが、大さじ一杯の黒ゴマと小さじ一杯の塩を加えて煎ったものを軽く混ぜ合わせます。

 小豆の量ですか?玄米3合に対して半カップ弱といったところでしょうか。圧力釜のレシピには、玄米を一晩、水につけおくことになっていましたので、小生もそうしたのですが、小豆も一晩つけておきました。(レシピではつけておかない)もちろん、玄米と同じ水につけておきました。

 そんなことは、良いから味がどうだったかに関心があると思いますが、もう一言、炊飯時間が肝心です。レシピでは15分つなっているのですが、前2回とも「柔らかすぎて、また、焦げが出来てしまった」ものですから、今回は、火加減を弱くして、13分くらいで火を止めました。

 肝心な出来具合ですが、これでも「お焦げが出来、柔らかめ」でしたが、赤飯を食べているような感じで、美味しくいただけました。

 玄米ご飯が食物繊維やビタミンなどの栄養が満点であることは、皆さんご承知だと思いますが、小豆ではなく、大豆ですと、もっと栄養があるものがいただけると思います。

 ところで、五木さんの本のことですが、第1章が「時代を見すえる」第2章が「人生は憂鬱である」第3章が「下山の哲学を持つ」と続いて第4章「日本人に洋魂は持てない」第5章「他力の風にまかせること」第6章「老いとは熟成である」となり、最後の最終章としてこの本の題名である「人間の覚悟」で締めくくっています。

 今日は、このうち第1章から第3章までを読んだのですが、なかなか面白いものです。

 例えば、第一章「時代を見すえる」の小見出しには、「時代は地獄に近づいている。」「資本主義が断末魔の叫びをあげ、あらゆることが下降していくなか、「命の実感」が薄らいでいる。」とあります。

 そして、中身を見ますと、いきなり「地獄の門がいま開く」という衝撃的な文字が目に飛び込んできます。

 『闇が深さを増してきました。

 時代は「地獄」へ向かって、劇的に近づきつつあるようです。母親の子殺し、無差別殺人はすでに衝撃的な事件ではありません。

 少し前の朝日新聞の一面のトップに、自殺者が十年連続で三万人を超えたという記事が載りました。その数自体もさることながら、自殺が全国紙の一面にでてくるというのはじつに象徴的なことだと思います。』

 という書き出しではじまるのですが、五木さんはこういう時代が来るということを以前から指摘していたそうです。

 しかし、五木さんがここでいいたいことは、自殺者の数や、親殺しや無差別殺人も含めて、「これほど人間の命、生命にというものに対する軽さがドラスティックに進んでいる時代はないのではないか。最近、話題に『蟹工船』の冒頭の一文、「おい、地獄さ行ぐんだで!」になぞらえるなら、これからは地獄へ行くのだと覚悟しなくてはなりません。」

 ということのようです。しかも、問題は、毎日のように報じられる人の死について、それを受け取る側(私たち)は心を麻痺させたように沈黙している。みなが無言で崖っぷちを除いているような気配がある。地獄の入口の門が、ギギギ、と音を立ててt開き始めているような実感がある。

 と述べています。

 そして、人々がこういう時代にどのような「覚悟」が必要なのかを述べています。

 それは、

 『まず「生きる」こと。どんなにみっともなくとも、「生きつづけ」「存在する」こと。みずから命を捨てたり、他人の命をうばわないこと。

 それを覚悟のひとつとすれば、「人間はどう生きるべきか」が問題なのではなく、「人間は、今こうして生きていることにこそ価値がある」、と、そう思い続けているのです。』

 と言っています。

 当たり前のような話ですが、現在の命の軽さを見ると、命の大切さをこのように「覚悟」する必要があるということなのでしょう。

 「生きていることに価値がある」という言葉は、自分の人生に悩んでいる人々に多くの勇気を与えると思うのですが、小生なども本当に「救われる言葉」だと思いました。