最近、エルトン・ジョンやポール・サイモンがツアー活動から身を引くという話がありました。
それでこのブログでも、寂しくなりますねなんて記事を書いていたんですが……数日前に、またその類のニュースを目にしました。
ジョーン・バエズが、フェアウェルツアーを行い、やはりツアー活動を引退するというのです。
ジョーン・バエズといえば、60年代のラブ&ピース、フォーク・リバイバルの時代に活躍した女性アーティストです。
サイモン&ガーファンクルとはほぼ同世代の人なので、ポール・サイモンと同時期にツアー活動から引退するというのは、まあ自然といえば自然ではあります。
彼女の名前は、過去に一度、このブログでも出てきました。
アニマルズの「朝日のあたる家」について書いた記事で、この歌をカバーしているアーティストとして、ジョーン・バエズを紹介しました。
バエズはフォークシンガーなわけですが、フォークというのはそもそも“民衆音楽”といったような意味なので、昔から伝わってきたトラディショナルソングを歌ったりすることも多いです。
ジョーン・バエズの場合、日本でもよく知られている「ドナ・ドナ」や、ゴスペルの「オー・ハッピー・デイ」などを歌っています。
また、トラディショナル以外では、ボブ・ディランの「風に吹かれて」や、アニマルズの「雨を汚したのは誰」といった反戦歌をカバー。ビートルズの Eleanor Rigby なんかもやってますが、これも現代社会の矛盾を歌うみたいな感じで、やっぱりラブ&ピースを志向してるわけです。
そんなバエズなんですが……この記事では、ちょっとスケールを大きくして、彼女の歌った「共和国賛歌」という歌を通して、アメリカという国のあり方について考えてみたいと思います。
共和国賛歌……原題は、Battle Hymn of the Republic
直訳すれば、“共和国の戦いの聖歌”とでもいった感じです。
こういわれても日本人にはあまりなじみがないかもしれませんが、メロディ自体は誰でも聞いたことがあるでしょう。たとえばヨドバシカメラのCMで「まぁるい緑の山手線……」と歌われているあの歌です(日本では「たんたんたぬきの……」という替え歌もありますが、そんな歌詞をあてられていると知ったら保守的なアメリカ人は激怒するでしょう)。
この歌は、もともとは南北戦争時代に歌われていた一種の軍歌のようなもので、アメリカでは超メジャーな愛国歌。かのエルヴィス・プレスリーも「アメリカの祈り」というトラディショナル・メドレーのなかでとりあげています。
で、この歌を、ジョーン・バエズも歌っているのです。
そこが、私にはちょっとひっかかるんです。
まあ、エルヴィスがカバーするのはわからんでもないのですが、しかし、どうして反戦の立場を基本にするバエズがこの歌を歌ったんだろうか……と私はかねてから不思議に思っています。反戦歌を歌ってベトナム戦争を批判するのなら、戦いを賛美するような歌を歌うのはおかしかないか、と。
そこのところを深く掘り下げていくと、アメリカの抱えている“病理”が見えてくるように思えます。
この奇妙なねじれが、アメリカという国に深く根付く“戦争癖”の表れと見えるのです。
この歌には、次のような歌詞があります。
As He died to make men holy, let us die to make men free.
「彼がその死によって人を聖なるものにしたように、私たちの死によって人を自由にしてください」という意味です。
なにしろ戦争の歌なんで、戦争の意義を強調しているわけですね。
イエス・キリストは、十字架にかかって自らが死ぬことによって人類の罪を贖った。それと同じように、この戦争で自分が死ぬことによって、奴隷解放を成し遂げてほしい……というわけです。
おそらく、この歌詞がアメリカ人の心を打つんだと思います。
たしかに、字面だけみればかっこいいですからね。こういった歌詞がしびれるということで、南北戦争時代の軍歌のなかでも特にこれが人気になったわけでしょう。
でも、これをそのまま真に受けていいのかな……と私なんかは思ってしまいます。
たぶんこの「自由のために血を流す」という感覚が、たとえばイラク戦争を支持してしまうことにつながってるんですよね。
歴史上のいろんな事実を調べてみれば、南北戦争だって「奴隷解放のための正義の戦争」というきれいなことばかりでもなかったりするわけで……しかしそこを、イエス・キリストの死になぞらえて「自由のために」なんていわれると、そういう影の部分が一気にすっとばされて「そうだ、自由のためだ!」となってしまっている気がします。それで、後になってつじつま合わせに腐心するという……
「自由のため」というのが、いろいろの細かい議論をご破算にして血沸き肉踊らせる効果を持ってしまってるんじゃないか。そして、反戦の立場にあってさえ、アメリカで育った人の心の底にはそういう心性が潜んでいるのではないか。ジョーン・バエズが共和国賛歌を歌うというのは、その表れのように私には見えます。
おそらくアメリカの人がそういわれると、「いや、それとこれとは話がちがう」「これは一種の比喩のようなものであって……」みたいな反応をすると思うんですが、そのこと自体が、「自由のため」という言葉が戦争を容認、正当化する“水戸黄門の印籠”的に機能し続ける要因ではないでしょうか。