2023年を振り返る記事として、前回ジャニーズ問題について書きました。
この問題でもう一つ考え去られるのが、ジャーナリズムのあり方。
前回予告したとおり、今回はこの件について書こうと思います。
ジャニーズ問題では、「メディアの沈黙」ということが指摘されました。
一度は裁判沙汰になったにもかかわらず、多くのメディアはこの問題に触れてこなかった。そのことが、さらに被害者を増やすことになった、と。
「メディアの沈黙」という問題は、ジャニーズの問題にとどまらないかもしれません。
たとえば、かつて薬害エイズの問題が起きたとき、当時の厚生省記者クラブにいた記者たちは「そんなことは知っていた」と嘯いたといいます。知っていたのなら、なぜ報道しなかったのかという話になります。
あるいは、立花隆氏の有名な著書『田中角栄研究』。あの本は、メディアの記者たちが「知っていながら報道しなかった」話がもとになっている部分があるといいます。知っているのに、なぜ報道しないのか? 忖度なのか圧力なのか、その合わせ技なのか……結局この問題は、海外紙の報道がきっかけとなって大きく動くことになりました。今年のジャニーズ問題と同じです。
このように、「メディアの沈黙」というのは、ずっと昔からある問題のようなのです。
いっぽうで、この十数年ほど、「メディアスクラム」という問題も指摘されてきました。
メディアスクラムというのは、マスコミが取材対象に殺到して追いまわしたりすることで、こちらはいわばメディアの「騒ぎすぎ」ということで、批判されてきました。このメディアスクラム批判というのが、マスメディアを委縮させてきた部分も相当にあるのではないかと私は思っています。ジャニーズ問題に関しても、ジャニーズに対するつるし上げではないかというようなメディア批判の言説が聞かれました。
メディアの沈黙とメディアの騒ぎすぎ……この両極にある問題も、私からすれば、前回の記事で書いた「規範の欠如」という一つの問題に帰着するものと思われます。
報道には、たしかに加害性があります。
たとえば、メディアの追及によって取材対象が追い込まれ、自殺してしまうかもしれない。
しかし、でメディアの取材が法によって規制されるべきかというと、それもよくない。メディアの取材が法によって規制されるというのはきわめて危険であり、それは基本的に望ましくない。
したがって、そこではジャーナリストの規範が問われるわけです。
成文的規則のエアポケットであるがゆえに、個々の内的倫理が必要となる領域といえます。
そこで求められるのは、成文化された規則がないからこそ、あるべき倫理とはなにかを考え、厳しく己を律する姿勢です。
ある場合は、加害性を引き受けて徹底的に追求しなければならない。しかしある場合には、そこまでする必要がない……法的な規制がないからこそ、ジャーナリスト個人やメディアがその基準をどこに置くかをつねに熟慮し、判断しなければならないわけです。
その基準は、たとえば公共性の有無であるとか、事態の大きさとか、本来そういうところにおかれるべきでしょう。
しかしながら、この国のマスコミを見ていると、主な基準が「叩きやすいかどうか」「叩いても反撃してこない相手か」というところにあるようにも見えます。
ゆえに、権力を持った相手は追及せず、そうでない相手にはよってたかって殴りかかる……というふうになってしまうんじゃないでしょうか。
ジャニーズの件でいえば、ジャニーさんが生きていて権力をもっている間は沈黙し、彼の死後に海外メディアが問題をとりあげたことでジャニーズ事務所が守勢にまわると、今なら大丈夫だとかさにかかって攻めかかる。こうなると、見ているほうもちょっとしらけてしまいます。
今回のジャニーズ問題からマスメディアが得るべき教訓は、「権力への忖度はよくない」ということでしょう。いまは沈黙が是であっても、いずれその問題が隠しきれなくなったときになって叩き始めると「手のひら返し」といわれるリスクがある。そのリスクを避けたければ、権力者の不正は、その相手が権力を持っているうちから厳しく糾弾するべきなのです。
最後にもう一つ付言するならば…ジャーナリズムが従うべき倫理規範は、“世間の目”であるべきでもないでしょう。
“世間の目”は、不正を糾弾するという点では一定程度機能すると思いますが、ジャーナリズムは“世間の目”と戦わなければならないときもあると思うので。