津原泰水さんの『ヒッキーヒッキーシェイク』を読みました。
このブログでは普段、現役で活動している作家の作品はあまり取り上げないようにしてるんですが……今回は、この作品について書こうと思います。
なぜ現役作家の作品について書かないかというと……批判すれば陰口をいっているみたいになるし、逆にほめるようなことを書けばお追従をいっているようになってしまうから――ということです。
そういうわけで、あえて現役作家の作品について書くのは、なにかそれがタイムリーな問題につながっているような場合に限定しています。
こう書けば、なぜこの『ヒッキーヒッキーシェイク』を取り上げるのかはおわかりいただけるでしょう。
どちらかというと、作品そのものよりも津原泰水さんのことが注目されてましたね。
例の騒動は、いくつもの問題点がからんでいますが、一番の問題点は、裏から手を回すようなやり方で津原さんを黙らせようとしたことでしょう。
剽窃云々という問題は、小説にかぎらず音楽の世界にもうんざりするほどあって、判断が難しいところもあります。
しかしそこは、きっちりと批判、反論、再反論をすればいい話です。それをせずに――つまり正面から議論せずに――いやがらせのようなことをやってしまったのが問題でしょう。
いまの日本社会に起きているさまざまな問題に通ずるところがるようで、非常に気分の悪い話でした。
何か問題があると、それに反論したり修正したりするのではなく、権力にものをいわせて何もなかったことにしようとするという……
しかし同時に、これはおかしいと文筆・出版に携わる多くの人が声をあげてもいました。中には、私が個人的にかかわりのある作家や評論家の方も含まれていました。そのことが、救いではあります。
さてここで、『ヒッキーヒッキーシェイク』の内容にも触れておきましょう。
タイトルが暗示するとおり、この作品は「引きこもり」をモチーフにしています。
4人のヒッキーたちが、3DCGにまつわる「不気味の谷」を超えようとするところからはじまり、ユーファント、キング☆ブルドッグといったアイディアが次々に現れ、軽快なテンポでストーリーが進んでいきます。
文庫版のあとがきによると、序盤部分は、クラウス・フォアマンの装画Hikky Hikky Shake の制作と並行する形で執筆されたといいます。
このクラウス・フォアマンという人は、ビートルズのアルバム『REVOLVER』のジャケットで有名な人です。
参考までに、そのジャケットがわかるアマゾンのページを貼り付けておきましょう。
同じくあとがきによれば、知人の知人の知人といった関係で、装画の件を打診したところ、フォアマン氏が快諾してくれたといいます。ヒキコモリはドイツでも大きな問題になっていて……いや、ドイツばかりでなく、いまやOED(オックスフォード英語辞典。英語圏でもっとも権威があるとされる辞典)にも掲載されている国際的な概念だそうで、フォアマン氏もその問題意識に共感したようです。(ただし、文庫版の装画は別のものになってます)
フォアマン氏の装画が小説をモチーフにしているのは当然ですが、逆にフォアマン氏の側から提示されたモチーフを作中に取り込んだ部分もあるといいます。『REVOLVER』の収録曲であるTaxmanが作中に登場するのも、フォアマン氏の存在があってのことでしょう。これは一種の遊び心かもしれませんが……しかし、そうした経緯を踏まえて、あらためて『REVOLVER』に収録されている曲の詞を読んでみると、小説の内容とリンクしてくる気もします。
たとえば、以下のような歌詞です。
ああ、見てごらん あの孤独な人々を
(Eleanor Rigby)
人生はとても短い
新しいのを買うこともできない
(Love You to)
あらゆる音を聞いたと君はいう
そして、君の鳥はスウィングすると
だけど君には僕の声が聞こえない 僕の声が聞こえない
(And Your Bird Can Sing)
なかでも、とりわけ近い波長を感じたのは、I'm Only Sleeping という曲です。
僕の眠りを覚まさないで
揺さぶったりしないで
僕をそっとしておいてくれ
ただ、眠ってるだけなんだ
みんな僕を怠け者と思っているらしい
気にしたりしないよ いかれてるのはあいつらのほうさ
あんなにせわし気に走り回って
結局はその無意味さに気づくだけ
僕の暮らしを台無しにしないでくれ
僕は遠く離れた場所にいる
つまるところ
僕はただ、眠ってるだけなんだ
窓のそばで外の世界をじっと見つめながら
のんびりと
横になって天井を見上げながら
眠気を待っている
こうした曲が、直接間接に小説に影響を与えているんじゃないでしょうか。
『REVOLVER』というアルバムは、後期ビートルズへの転換点に位置する名盤です。ここで歌われているモチーフは、Fool on the Hill や Watching the Wheels など、ビートルズやジョン・レノンのソロ曲で繰り返し変奏されているものでもあります。そしてそれが、津原さんの『ヒッキーヒッキーシェイク』にも通奏低音のように響いているように思われるのです。エクソンとイントロンの対比というか……短期的な日常生活で重要なのはエクソンだけれど、長期的な進化においてはむしろイントロンが重要な役割を果たすという……そんなふうに考えると、「引きこもり」という現代的なイッシューの背後に、もっと普遍的なテーマが横たわっているのかもしれません。
この本を担当したハヤカワ書房の編集者が、この本が売れなかったら編集者をやめますとまでいったのも、そいうことなんでしょう。
作品の外側のことで注目されるかたちになった作品ですが、そういうこともあっていいと思います。
この『ヒッキーヒッキーシェイク』は、作品の内側においても、その外側においても、いまの日本を切り取って見せたのです。そういう意味では、いま話題の「表現の不自由展」みたいなことになったんじゃないでしょうか。まあ津原さんは「表現の不自由展」を快く思ってないかもしれませんが……