手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

 詩吟  「漢詩」そして「吟」

2005-09-14 21:22:38 | 詩吟関係
 詩吟を始めて31年になる。一番初めに「富士山」石川丈山作を吟じて、今も飽きることなく吟じている。
 習い始めた頃から、詩吟に関係する本を買い、新しい詩を、私好みの詩を見つけることが好きだった。そして、勝手に譜をつけて吟じたりしていた。
 高校の国語の教員だったから、漢文で漢詩は幾つも扱っていて、それも同じ詩を何十年も教えてきた。だから、教材で扱ったような詩は、解説書を読まなくても説明できるのは当然のことだった。そんなにして同じ詩を長いこと読み、吟じて、それで飽きることは無い。
 詩吟を、始めて、詩吟の世界では、漢詩を学問の対象と考えないで、詩吟の題材のように考えている方が多いのに驚いた。それも、一流の吟者に結構そんな人がいるのです。それでいて、詩文をよく理解して吟じなさいという。教えている詩文が間違った読み方をされていても、間違いだと言わない。そのように教えられてきたとか、ある書物にそのように書かれていたからという。特に、私が今年の春まで関係していた、流派ではひどかった。具申しても聞き入れない、検討もしないのです。その流派から独立する気にさせた、一つの原因はそこにあった。
 私は、カラオケも好きで、よく歌いに行ったりもします。次々と新しい歌が出されて、次々に消えていきます。一時期、私も結構新しい歌を覚える努力をしたことも有りました。しかし、今は、よっぽど魅力を感じさせられる歌以外は覚えようとしない。もっぱら、昔の気に入った曲を歌っています。流行歌、「はやりうた」はやっぱり流行歌でしかないのです。詩吟で扱う漢詩は、何度吟じても、新しい感動を与えてくれる。カラオケは発声の稽古にもなると、思ってはいますが、詩吟とは比較にならないのです。やっぱりやらなければ判からないことですが、吟の凄さが漢詩の素晴らしさと一体になった、詩吟、何時までも新しい秘密はそこにあるのだと思います。
 吟ずることは、歌うことではない。節回しは歌で、吟ではない。私は、外の流派の吟じ方がどうあれ、それに動かされずに、地味かもしれないけれど、私の吟を教える。漢詩の素敵さを生徒さんと共有する詩吟の会とする。