手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

村橋久成胸像「残響」建立除幕式に出席

2005-09-24 21:36:54 | 随筆「残響」
 知事公館の正面入り口の通路、左側、緑樹を背に、その像は建てられた。折からの小雨、でも、100数十人の見守る中で、関係者の手により除幕された。
 田中和夫先生が、「残響」を自費出版されてから25年目にして、この胸像が、ここ北海道のそれも知事公館の庭に移設されたのです。
 田中先生が、小説「残響」を出版した時を同じくして、村橋の故郷鹿児島では、鹿児島大学教授日本芸術院会員中村晋也氏が「若き薩摩の群像」という、若者の群像を彫刻されていた。これは明治維新、薩摩藩からイギリスに留学生として派遣された17名の若者の群像です。その中に村橋もいたのです。
 そんな中で「残響」を通し、村橋の活躍、そしてその壮絶な最後を中村先生は知るのです。そして、田中先生との交友も深まっていくのです。また、残響によって鹿児島で、村橋久成の存在がクローズアップされ、終に鹿児島久成会が出来るのです。

 田中先生は、北大図書館で、村橋の写真を見つけます。それを中村先生が受け取り、その写真に感動して、すぐにその胸像の製作に入ったとのことです。そして出来上がった胸像の銘を「残響」としたのは言うまでも無く、この小説の題名からなのです。
 この胸像は中村先生の美術館に展示していたのですが、その胸像を北海道に移設したいとう、運動が始まり、この期成会の事務局長をなさった吉村百一さんが中村先生を尋ね、この像の寄贈をお願いしたところ、先生もこの像は北海道に置くべきと思っていらっしゃって、快く承諾されたとのことです。

 そしてこの移設運動の、切り札となったのが、新知事高橋さんの施政方針演説だったようです。この演説の最後を、東京でのビール醸造所建設計画を覆し、札幌にビール工場を建設させた村橋の高い志と果敢な挑戦を、自身に重ねて話されたことだったのです。
 高橋知事は、この移設計画に直ちに賛同し、建設場所も知事公館の庭と決めてくれてのです。
 
 除幕式の後、この残響を原作とした演劇「北に夢を追ったサムライ」を観賞し、札幌ビール園での祝賀会に出させていただき、おいしいビールを、とてもおいしく飲ませてもらいました。
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