今日何気なく見たテレビに画家堀文子さん(93歳)が出ていた。とてもそんな歳とは思えない。見かけは勿論、話し方、話す内容などは50台といってもよい。
驚いた。「群れない 慣れない 頼らない」これがモットウだという。ここに徹すれば孤独ということは無くなるはずだ。画家だけにいえることではないけれど、個性が無くて芸術家とはいえないのでしょうから、こんな強さは当然なのかもしれない。だが、そんなに簡単なことではない。
こんな生き方に徹したからこんなに若くいられるのだろうか。今も現役の画家として常に新しいものを追求している。作品は「自分から離れたと思えない」ものとなっているという。とても味わい深い言葉だ。
私は今詩吟をやっている。そんな中で何時も迷いに迷っている。「慣れない」ことは確かだけれど、慣れることすら出来なかったのだ。「頼らない」、私は頼れる人に出会えなかったように思う。先生に心服できなかった・・・自分が選んだ先生ではなく、たまたま詩吟を始めたときに出会った先生だった。吟はとても素晴らしいと思った。だが人生の師としてついてゆくことが出来なかった。たとえ吟力がそれほどでないにしても、人間として学びたいと思える人だったら、おそらく離れることは無かったと思うし、そんな中で自分を作り上げたと思う。
今、詩吟の先生としてお弟子さんに吟を指導している。教えながら迷っている。別な見方をすると「群れ」ようとしているのかもしれない。大勢に順応しようとしているように思う。
本当にお弟子さんには申し訳ない。詩吟でも、人生でも足りないところばかりだ。
詩吟には沢山の流派がある。その一つ一つに個性がある。北海道詩吟連盟という団体は、言えば、個性のあるはずの沢山の会をまとめた団体です。その団体が、資格審査、競吟大会大会などは同じ土俵で量られるのです。詩吟という土俵はおなじだけれど、出来るだけ公平に量るとすれば、標準化の力が働く。それを感じると、個性を殺してでも標準化になじもうとする、これは「群れる」事にならないだろうか。それが嫌ならまったく独立した会として、一つの流派として生きるより道は無くなる。それが出来ないから現在がある。
いまさら迷っても仕方が無いのだけれど、どうもそんなに強くない。迷わずにいる方は少ないのかもしれないけれど、自信満々のように進んでいる方たちを羨ましく思ってしまうのです。
驚いた。「群れない 慣れない 頼らない」これがモットウだという。ここに徹すれば孤独ということは無くなるはずだ。画家だけにいえることではないけれど、個性が無くて芸術家とはいえないのでしょうから、こんな強さは当然なのかもしれない。だが、そんなに簡単なことではない。
こんな生き方に徹したからこんなに若くいられるのだろうか。今も現役の画家として常に新しいものを追求している。作品は「自分から離れたと思えない」ものとなっているという。とても味わい深い言葉だ。
私は今詩吟をやっている。そんな中で何時も迷いに迷っている。「慣れない」ことは確かだけれど、慣れることすら出来なかったのだ。「頼らない」、私は頼れる人に出会えなかったように思う。先生に心服できなかった・・・自分が選んだ先生ではなく、たまたま詩吟を始めたときに出会った先生だった。吟はとても素晴らしいと思った。だが人生の師としてついてゆくことが出来なかった。たとえ吟力がそれほどでないにしても、人間として学びたいと思える人だったら、おそらく離れることは無かったと思うし、そんな中で自分を作り上げたと思う。
今、詩吟の先生としてお弟子さんに吟を指導している。教えながら迷っている。別な見方をすると「群れ」ようとしているのかもしれない。大勢に順応しようとしているように思う。
本当にお弟子さんには申し訳ない。詩吟でも、人生でも足りないところばかりだ。
詩吟には沢山の流派がある。その一つ一つに個性がある。北海道詩吟連盟という団体は、言えば、個性のあるはずの沢山の会をまとめた団体です。その団体が、資格審査、競吟大会大会などは同じ土俵で量られるのです。詩吟という土俵はおなじだけれど、出来るだけ公平に量るとすれば、標準化の力が働く。それを感じると、個性を殺してでも標準化になじもうとする、これは「群れる」事にならないだろうか。それが嫌ならまったく独立した会として、一つの流派として生きるより道は無くなる。それが出来ないから現在がある。
いまさら迷っても仕方が無いのだけれど、どうもそんなに強くない。迷わずにいる方は少ないのかもしれないけれど、自信満々のように進んでいる方たちを羨ましく思ってしまうのです。