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手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

お酒! お酒!! おさけの思い出

2015-12-03 19:27:24 | 身辺雑記
 お酒を最初に口にしたのは確か17歳ころだったと思う。当時、父は田舎の小学校の校長先生で校舎にくっついた公宅に住んでいた。

 お盆になると校庭に櫓が組まれ中の大人も子供も集まって盛大な盆踊りが催される。踊る阿呆に、踊らぬ阿呆、どうせ阿呆なら踊らにゃ損々・・私は待ち焦がれて踊る阿呆でした。そんな盆踊りをしているときに、ふと父が「どぶろく」を仕込んでいるのを思い出し、そっと茶碗に注いで飲み干してみました。そして又踊りに加わったのですが、間もなく酒が利いてきて倒れそうになり、ついに我慢ができず家に戻り、ゲロゲロ戻して寝込んだのが最初でした。

 次が、第三師範本科一年に入学して、石北線の安足間から旭川へ汽車通を始めたとき、汽車通のパーティが確か当麻で開かれた。そして酒が出た。酒であることはわかったが、清酒か焼酎かも判らず、飲んだ。でも、その時は自分で加減したと思う。おいしいという実感は全くなく、それほど酔うこともなく終わった。

 大学時代もたまに仲間とバーに行くこともあったけれど、酔わない程度の、お金もかからない飲み方を少ししたくらいだった。

 沼田高校に昭和28年奉職したのですが、いい仲間がすぐできて周りの先輩たちには酒飲み、遊び上手な方も多く、夜な夜な町に飲みに出かけていた。安い給料だったので、つけで飲み給料が来ても借金払いでなくなるような生活が続いた。でも、そんなに羽目を外すこともなくも楽しい酒だった。給料のほとんどが飲み代になっていた。

 結婚してからは、めったに飲みに出ることもなくなッた。又、家で飲むということもなかった。

 美唄に転勤してからも宴会の酒は飲んでも深酒はしない努力をしていた。二次会などではお茶だけ飲むというありさまだった。

 そんな状態で札幌に転勤してきた。西陵高校に来た一年目くらいは、二次会についてゆき会場に入るなり具合が悪くなり吐いたりしてお茶だけ飲んで付き合ったりしていたのに、2年目から変わってしまった。いい飲み仲間ができ、飲み方も上手になり、酒での楽しみが判ってきた。そのころからカラオケもはやりだしていた。

 特にもう他界したF先輩はとても社交的な方で、しばらく手稲に住居を構えたこともあり、楽しい飲み屋を見つけてきて私とT君を連れて行ってくれる。そんな付き合いが重なるうちに私もいつの間にか結構飲めるようになって、また酒場の楽しさを知ることになってしまいました。

 札幌での現役生活は12年でしたが、2年目くらいから、退職後数年までは手稲の街でずいぶん楽しんだものでした。バブルの時期でしたから、飲み屋の数も多くはしご酒で楽しんだものでした。バプルがはじけてから、飲み屋がどんどん減り、手頃の値段では遊べない時代となり、最後「いの平」という小さな居酒屋さんが砦みたいになっていましたが、それも小野ママが倒れてから閉店となり、自分で飲みに行く場所もなくなった。まるでそれに呼応するように宴会などで飲みすぎると三日酔いみたいな有様で、もう飲むのも限界かなと思うようになってきました。

 年が明けると86歳です。もういいですね。大浦元老が数年前から宴会はノンアルコールビールにしている。私もそれに倣うことにしましょうか。ちょっと寂しい気がするのですが、体力がついてきてとくれないような気がします。
コメント
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