手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

自分に指導力があるとは思わないのだけれど

2016-04-21 19:41:45 | 身辺雑記
 私は自分自身を決して指導力があると思っていない。むしろ足りないところが多すぎ、劣等感さへ覚えている。高等学校の教員として38年間務めあげたけれど、生徒に慕われる先生ではなかったと思うし、恐れられる先生でもなかった。当然だけれど、管理職にもなれなかった。なりたいとも思わなかった・・・その才能がないと自覚していた。

 それでも、何かしらというかいつの間にかリーダー的なところに立っていることが多かった。公務分掌などでも中年なってからはほとんど部長なることが多かった。詩吟の会を作ったときはその会長にされた。

 美唄東に転勤した翌年には、高等学校教職員組合の美唄支部支部長にさせられた。しかし、その当時の組合指導者の属する政党に加盟することをしなかったこともあり、一年で降ろされた。これはやれやれといった感じだった。そのあたりからいわば左右の中間に位置づけられるような存在になっていたように思う。教頭試験が始まったとき最初に推薦されたのが私だった。しかし、自信がなかったから断った。そのあと数年後に又勧められやむなく受けたけれど登用されませんでした。これが私にとってはありがたいことだったと思っている。

 札幌に転勤となって、二年目に団体事務局長にさせられ、学校開放公開講座の開設をやらされ、この活動は全国的にも注目を集めることとなった。そしてPTA活動では北海道高等学校PTA連絡協議会の事務局となりその事務一切を仕切ったりして、全国高等学校PTA連絡協議会から表彰を受けるPTAにした。

 手稲に住まって、間もなく何もわからないのに突然町内会の副会長に指名され、その時は2年で終わったがその数年後又副会長をやることになり、この時は4年ほどやったのだけれど、ほとんど私の発想で動いてくれ、今も語り草になるほど楽しい町内会活動ができた。そのあと会長になってほしいという要請はずいぶんあったけれど断りとおした。

 詩吟の会を作って活動しはじめて、手稲の文化協会に加盟し、数年後事務局長になってから、名前だけの文化協会になっていたのを建て直そうと思い、丁度有珠山の大噴火災害のチャリティ伝統芸能祭を企画し大成功させ、それを契機に、それまでコミュニティセンターでやっていた手稲文化祭を,区民センターでやれるように区長交渉をして実現した。丁度その時、指定管理者制度が出来、やっと文化協会独自で開催することができていた手稲文化祭が、区民センター使用料全額負担ということになり、かなり激しい区との交渉をやり、結果として現在の手稲文化祭に落ち着いたのだけれど、必ずしもいまその時約束した方向には進まず、違う方向に向いている感がある。それ以外にも文化協会独自の活動として、伝統芸能祭を発展的に解消し「舞踊の集い」をたちあげ、「年忘れ演芸大会」「チャリティカラオケフェスティバル」を立ち上げた。

 又、詩吟では 象堂流に所属して40名の会員を集めていた。故あって 象堂流を退会していまの「碌峭会」を立ち上げ、北詩連に加盟した。その中で西支部の総務として5年ほど西支部の運営にかかわった。又会を設立してから毎年「交歓吟詠会」を開催していて、去年30周年記念大会を盛大に開催することができた。

 こんなことを、拾い集めてみると、まんざら指導力がないわけでもなかったのかとおもうのだけれど、たまたまそんな位置に自分が置かれ、その仕事を自分なりの展望を持ってやりとおしただけのことだったといえるのかもしれない。

 今も週5日、詩吟の教室を教えている。これは指導力とは関係ないかもしれない。
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