手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

詩吟  指導者がいなくなっている

2018-08-22 19:08:04 | 詩吟関係
  
 かつて詩吟の盛んだったころは、独特の声調を誇示し一派を作り上げる方も多かった。今や、一派を立ち上げるに必要な会員の獲得もむつかしい状況でもあるし、さらに個性的な吟者、指導者がいなくなっている。

 詩吟会員の減少が吟力の低下へと進んでいるように思う。また、会員の減少と伴奏楽器(コンダクター)の普及、各種コンテストの採点基準などに縛られて個性的な吟が抑えられてきているようにも思う。指導者も個性を表立たせず、標準的な吟法を探っている。個性的な吟となると、アクセントが違うという難点が付きまとう。又「渡り」などは許されない。流派による特徴が昔は際立っていたけれど、今は標準化されて来ている。西洋音楽的な発声法、標準語としての正しい発声、洗練された日本語のリズムなどが求められているように感じる。ここまでくると詩吟もきちんとした譜面に統一して、声楽的な研修をするしかなくなりそうだ。

 民謡という芸能がある。これは方言がまかり通り、言葉としての拍数などはその曲,曲によって違ってもしっかり認められる。その曲の個性をとことん認めている。詩吟ではより美しい日本語が求められる。このことは個性的と相反するところがある。民謡的な発想で個性的な吟を求めても、コンテストなどでは問題にもされない。資格審査でもはじかれる。やっぱり声楽的な評価が付きまとうのでしょうか。

 今詩吟の指導に当たっている先生方で声楽の勉強をしてきている人が何人いるでしょう。とても難しい。純粋の音楽としての評価は私にはできない。どちらかといえば詩吟は民謡に近いのだと思う。そうすると、もっと幅のある吟が認められてもいいのかもしれない。審査基準に声調があるはずだけれど、この点の評価の仕方などについてもう少し検討しあうことが必要に思われる。指導者の資質の向上、更に個性的ということについて、許容範囲とかも話し合ってみることが必要かもしれない。
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