10周年の折は使わせていただいた琴似のホテルヤマチが使えなくなっていて、会場探しに苦労しましたが、手稲記念館が使えるということで何とか乗り切れたのでした。
佐々木 象堂先生が参加して下さらなかったことを前回書きました。佐々木先生は弟子がこのような会を開くことは不遜なことと考えていたのかもしれません。事前にこの企画について
お話をして許可をいただいていました。その上で改めて宗家に案内を差し上げてありました。でも、理事長に希望者がいれば連れて行ったあげなさいと手配はされてくださいました。
おかげで、70数名の会にすることが出来面目を保つことができました。
前後になりますが、手稲にはほどほどの宴会場がなく、たまたま冠婚葬祭の「むすめや」が、友引の前の日は葬儀が行われないので16時くらいまで貸し出してくれるので、10周年の次の年、
11年目の交歓吟詠会を「娘や」で開催し、それ以来しばらく継続していました。11年からは、本部から東先生、葛西先生が必ず参加くださいまして、交歓会終了後二次会を本町の「スナック鷗」で
毎年開催していました。
さて話が横にそれたのですが15周年のころから東先生に、「村川、あなたはもう独立しなさい。私が宗家になって全面的に面倒を見るから・・・」と勧められるようになりました。当時、 象堂流に対して
どうも許せない思いが募っていました。まず、恵山流日本吟道会(象堂流の前身)創立の功労者である素晴らしい先生方が次々に退会して行く状況を作っていた。理事会という会議がもたれるのにそこで
審議されることは、佐々木先生の所信をお聞きし、それを受け止めるだけで、会議でないということ。大会等の決算報告は一度もされない。要望を提出しても検討して置きますといって一度もそれに答えたことがない。
教本は流派の顔なのだから、教本修正委員会を作って検討させてほしいとお願いしたけれど聞入れられない。又、奥伝師範になってから師範に昇格させるやり方が(宗家の意志で決められていた)不透明で、教室を持ち
吟力もある方が、何年たっても正師範の免許をいただけないなどといったことがとてもいやで、悩んでいました。一流を立ち上げるには力もありません。東先生の厚意に甘えても、半端な努力では適はないことですから
ためらっていて、20周年目の正月、この年の6月に 象堂流の 競吟大会があります。それを終わったところで象堂流をやめる決意をしました。
もちろん、やめてそのあとどうするの・・・・という問題があります。たまたま、 象堂流を退会して北詩連に移籍した大物の先生たちの話が伝わっ来ていました。又、私は札幌に転勤になって教室を立ち上げるとすぐに
手稲文化協会に加入しました。手稲文化協会に入りましたら、北詩連の岡内嶺周先生、長谷川北彩先生がおられ世話になってきました。ただ、お二人とも何年もしないうちに文化協会を退会されたのでした。しかし、その
縁がありますので、岡内嶺周先生をおたずねして、北詩連への橋渡しを。お願いして置きました。
正月に年一度の理事会が開かれますので、その折東先生に私の決意をお話して進めるつもりで゛出掛けけました。・・・・・つづく