自分のダメなところはあまりさらしたくない。駄目なところを売りにすることは無理な話です。でも、自分の至らないところを振り返ってみたいと思う。
好きでそうなったわけではないけれど、いろいろなことに手を出した。だけどどれも人並みにはならずじまいでした。運動では、スキー、卓球、バスケット、テニス、野球などをたのしんだ。どれも勝手に楽しんだだけで選手はもちろん、教えを受けたわけではない。中で一番得意だったのはスキーです。これも小学校の時まともな道具もないままみんなと遊んでいて、第三師範の本科一年に入ったとき、スキー部に入ればスキーが給付されるというので、入部してみた。しかし、スキーの用具は古い父の履いていたスキー靴があるだけで、ズボンもセーターも買うことができないままの貧相なスキー部員だった。練習にもろくに行くことができなく、一度だけ大会に出場させてもらって一年でやめたのです。
大学を卒業して最初の赴任先が沼田高校だった。昭和28年に着任。此の当時沼田の街でスキーをやる人は、町からかなり離れた炭鉱の従業員くらいでした。スキー場は町から2Kくらい離れたところの夏は農地になる丘でした。たまたまスキー一式が手に入り、放課後一人で出かけスキを楽しみ始めました。しかし、コーチをしてくれる人もなく、見様見真似の練習をしていました。そのうちに仲間が増えてきて、特に体育の新しい先生がスキーを授業に取り入れることにするので、手伝ったほしいといわれ、体育のスキー授業の手伝いもしたりしました。そのうちに町の体育協会主催のスキー大会が開催されるようになり、私が中心のスキー大会みたいなものになりました。回転のボールのセッティングだとか、ジャンプ台を作ったりして面倒を見たものでした。そのころ、スキーの検定が行われるようになったのですが、たまたま大学の同期の方が深川の方で指導員の資格を取っていて、その方が検定を受けなさい勧めてくれ、体育の先生と二人で見てもらったのですが、きちんと習っていないので、何点か注意され、この次検定を受けてみましょうといわれた。その年に 美唄へ転勤となり、二年目に一級の資格をもらいました。これは頑張ったのですが、肝心な指導者がいなく、正式な練習をしないままま温情でいただいたようなものでした。そのあとそれなりの技術は身につけましたが、きちんと指導を受けていない弱点だらけのスキー1級でした。