現役のころ、詩吟で山地吟友会の山地通夫先生と知り合い、先生が奥様とご一緒に主宰されていた短歌会「花林」の仲間に入れていただいて何年か在籍しました。二週間に一度の短歌会に出て先生(山名康郎先生)ご指導を受け、二た月に一度一人10首ほどの投稿をして同人誌「花林」を発刊していました。しかし3年くらいして、行き詰りました。おばさんたちがこともなく日常茶飯のことを歌にし上げているのに、私は頭でっかちで身の回りに転がってるものを感動を持ってとらえることができないのです。二か月に10首の歌を作ることが苦しくなりやめさせていただきました。それでも平成3年に開かれた第3回全道花林短歌大会の批講(司会)を仰せつかり100名くらいの参加者の短歌会を無事終了させたのは今も懐かしく思いだされますが、続けられなかったのは残念でした。もちろん詩吟が私の命で、二道掛けるのは私には無理だったのだと思います。
現役のころ、詩吟で山地吟友会の山地通夫先生と知り合い、先生が奥様とご一緒に主宰されていた短歌会「花林」の仲間に入れていただいて何年か在籍しました。二週間に一度の短歌会に出て先生(山名康郎先生)ご指導を受け、二た月に一度一人10首ほどの投稿をして同人誌「花林」を発刊していました。しかし3年くらいして、行き詰りました。おばさんたちがこともなく日常茶飯のことを歌にし上げているのに、私は頭でっかちで身の回りに転がってるものを感動を持ってとらえることができないのです。二か月に10首の歌を作ることが苦しくなりやめさせていただきました。それでも平成3年に開かれた第3回全道花林短歌大会の批講(司会)を仰せつかり100名くらいの参加者の短歌会を無事終了させたのは今も懐かしく思いだされますが、続けられなかったのは残念でした。もちろん詩吟が私の命で、二道掛けるのは私には無理だったのだと思います。