手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

おしゃべり・・・・社交ダンスにも挑戦した

2021-02-16 19:09:32 | 無題

 定年退職して身軽になったところで社交ダンスに挑戦してみる気になった。手稲文化協会に加入して知りましたが当時文化協会に社交ダンスのサークルが二団体ありました。更に手稲市内にいくつものダンスサークルがあることも知りました。そのころ居酒屋「いの平」に足しげく通っていて、ダンスの話をしたことはなかったのですが、小野ママに、社交ダンスをやってみようかと思っていると話したら、即、私の入っているサークルにいらっしゃい。大歓迎!!!と誘われた。小野ママが社交ダンスをやっていることを知らなかったのです。この話の出たとき、これまでもいい友達になっていた佐藤安康さんが私も一緒に行くと名乗りを上げてくれて二人で一緒にクラウンダンスサークルに入会しました。会員が50名くらいいました。先生が80歳を過ぎた男性の方でした。80歳過ぎてダンスの先生!!!と驚いていました。また いの平のママ小野さんがこのサークルの主みたいな人だったのです。稲苑大学の修了式近くなったら出掛けて教室でサヘクルの紹介をし新しい会員を集めておられたのです。
 手稲コミュニティセンターの体育館でレッスンです。体育館が三分の一区切られて、狭い方で新人は、先生の助手の方に指導を受け、上手になった方たちは広いところでさっそうと踊っているのです。さて高をくくって入会したのですが、最初に教わるのが、キュウバンルンバです。こんなにむつかしいとは思ってもいませんでした。少し動くと汗が飛び散る、下を向くとしたをむかない!!!と怒られる。スロー、スロー、クイック、クイックなどと想像していたのが「ツー スリー、フォー ワン」といったカウトの取り方で、組んだり離れたりしながらいくつかのフォメ―ションをこなして行くのです。何とか踊れるようになるのに一年かかりました。ところが、手稲区のダンスパーティに出て見たら、他のサークルの方たちの踊りと違うのです。いくつかのバージョンが違って、しかも他の方が派手なのです。あとで知りましたが、北海道バージョンと私たちの先生の教えるバージョンに違いがあったのです。それに怖気けて他のサークルの方と踊る度胸がでないまま終わってしまいました。結構サークルの中では上手な方だったと思いますが、度胸がなかったのですね。5年くらいそれでもやり、会がつぶれてやめました。
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おしゃべり・・・稲苑大学13期でした

2021-02-15 19:38:10 | 無題

 手稲の老人大学です。勉強・・・生涯学習の一環です。この大学の2期に詩吟の仲間(剣風会手稲)西田さんが入会し、20名ほどをまとめて剣風会稲苑道場を立ち上げ、稲苑大学の会場になっていた手稲コミュニティセンターの会場を使用料減免で使わせてもらい活動を始めていた。彼は当時手稲文化協会の副会長もやり、地元の町内会長などもやるとても行動的な方でした。そんな活動をされている中で、手稲老人福祉センターが開設され、私が詩吟講座の講師となり活動を始めました。それを知り彼は、福祉センターの館長に詩吟講座の講師を半年交代にしたらどうだと話を持ちかけました。そのあと館長から相談があって知ったのですが、私は半年は短かすぎます、一年交代でいいのではないですかと答えました。それで一年で交代になると覚悟を決めていたのですが、その話が受講生にどこからか漏れて、受講生の中から村川先生をやめさせないでほしいと館長に申し入れがあったのだそうです。そんなことで結局昨年の一月まで私が講師をつづけることになったのです。しかし、稲苑大学大学に行き、そこで詩吟のお弟子さんを見つけるのはすごく魅力的なことでした。それで、12期に応募しました。その時、町内会の私は副会長をしており、会長の若林さんに一緒に入ろうと誘いました。ところが、応募者が多く抽選になり、若林さんが合格、私は次年度送りになりました。結局私は13期の稲苑大学大学卒業生になったのです。ところがこの13期は私の思惑、詩吟のお弟子さんを見つけるのには最悪の会だったのです。詩吟をやっている人も多く、私の教室の教場長、福祉センター講座受講生の世話役のトップの方、先に書いた剣風会手稲の西田さんたちの会の指導者の方まで来ていたのです。それでも強引に誘いを入れて男性2人を仲間に入れることが出來、更に9期の男性で「いの平」の仲間で観世流の謡曲を長いことやっていたのだけれど、肺気腫で札幌へ稽古に出向くことが厳しくなったので、謡曲を止め詩吟の仲間に入れてほしいと入ってくれたのが北出さんでした。結局稲苑大学大学で仲間に入ってもらったのは2人と北出さんの3人でした。ちなみに、西田先生の立ち上げた稲苑道場は西田さんが個人的な都合で手稲を去られ、そのあとを女性の先生が継いだのですが、教え切れず会が崩壊してしまいました。崩壊後、私が講師をしていた老人福祉センターの詩吟講座に10名くらいいらっしゃるようになり世話を見て上げました。 誘った方が落ちて、誘われた方が入った稲苑大学。
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おしゃべり・・・・「花林」という短歌会に入ったことがあった

2021-02-14 19:30:34 | 無題

 現役のころ、詩吟で山地吟友会の山地通夫先生と知り合い、先生が奥様とご一緒に主宰されていた短歌会「花林」の仲間に入れていただいて何年か在籍しました。二週間に一度の短歌会に出て先生(山名康郎先生)ご指導を受け、二た月に一度一人10首ほどの投稿をして同人誌「花林」を発刊していました。しかし3年くらいして、行き詰りました。おばさんたちがこともなく日常茶飯のことを歌にし上げているのに、私は頭でっかちで身の回りに転がってるものを感動を持ってとらえることができないのです。二か月に10首の歌を作ることが苦しくなりやめさせていただきました。それでも平成3年に開かれた第3回全道花林短歌大会の批講(司会)を仰せつかり100名くらいの参加者の短歌会を無事終了させたのは今も懐かしく思いだされますが、続けられなかったのは残念でした。もちろん詩吟が私の命で、二道掛けるのは私には無理だったのだと思います。
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おしゃべり・・・お酒

2021-02-13 19:18:08 | 無題

 お酒に絡む思いでは多い。しかし、私はお酒が好きだったとは言えない。たたお酒を飲むと、誰もがそうだと思うけれどついついおしゃべりになる。でも振り返ってみると、現役時代最初の赴任校沼田ではいい飲み相手の同僚がいて、ずいぶん居酒屋をはしごして歩いたものでした。ところが二校目の美唄では一かたまりの教員住宅に入ることになり、飲み仲間になってくれるような人もいなく宴会の酒を飲むくらいで、楽しい酒をあまり飲めなかった。ただ、M校長先生の時は、校長住宅に招かれおいしいお酒を飲まされた記憶がある。九州男児で剣道の達人、書も素晴らしく、いただいた漢詩の色紙と和歌の色紙は額に入れて今も私の部屋に飾ってある。15年いたのだけれど美唄の街にはなじみの酒場は一軒もなかった。
 最後が現在の住まい手稲になった。新設高校で設立三年目に赴任したのでしたが、同じ年に赴任した、F先生とT先生がとても付き合いの良い方で、お酒を楽しく飲まれる方でした。たまたまF先生は着任して暫く手稲に居を構えることになり、手稲でよい飲み屋さんを見つけて誘ってくれて一緒に遊ぶようになって手稲の街に馴染みの酒場が数軒出来て退職後何年かまで良く出掛けました。中でも「いの平」という居酒屋は生涯忘れることのできない楽しいお店でした。飲み仲間はとてもいい人ばかりで、男性のほとんどは私の詩吟の教室に入ってくれたりしました。ママは私たちより10歳くらい若かったのですが、手稲の老人大学のOBとして、皆様の世話もしてくれて飲み仲間の階層も嫌味がなく、独り手酌でも楽しめるいい店だったのですが、突然動脈瘤破裂でなくなり、そこから飲みに出歩くことはやめました。でも、「いの平」の思い出は酒の楽しさです。私は詩吟の教室を多い時は5教室持っていました。そして年に一度お客様をお招きして交歓吟詠会というものを開催してきました。その流れの中で、二次会をあるスナックを借り切って何年かやったことがあります。私の所属の流派の幹部の先生ほとんどと、岩見沢から毎年来てくれていた仲間も含め20数名の二次会をやったりしました。一昨年で終わりにしました。もう二次会を楽しむのには歳を取り過ぎてしまったのです。交歓吟詠もここで終止譜を打ちました。
 
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おしゃべり・・・・4  野球

2021-02-12 19:11:36 | 無題

 野球のおしゃべりになると、プロ野球と自分の経験談になる。プロ野球は、千葉ロッテのフアンだから当然パシフイックを応援している話になる。自分の経験となると、職場の野球チームの一員だった話になる。
 戦時中の田舎の学校には野球の道具もなかった。でも校庭にはバックネット作られていた。終戦後いくらもしないうちから野球はできるようになって軟式野球のボールが手に入るようになった。どうなっていたのか思いだせないけれどひどいグローブのようなものも手に入り、一人でバックネットにボールをぶつけ、跳ね返るボールを一番良い位置で捕る練習をしたり、バックネットの板の部分に〇を書き、それを目標にボールを投げて命中させる、いわばコントロールの稽古などをして遊んでいた。そんなことがあり、職場で野球を始めたとき、結構野球のできる仲間の一人になった。練習でピッチャーの練習をすると、とてもいいコントロールなのだけれど、本番になったら全然コントロールきが利かなくなるのです。
 練習でバッティングピッチャーになって投げ込んだら、真ん中にいくらでも投げられるのです。でも打者がみんな打てないのです。真ん中に投げてやっているのにほとんど空振りになるのです。あとで考えると私のボールの投げ方が、ボールに回転をあまり与えない投げ方なのでプレートのあたりで沈んでいた。今のいわゆるホークボールに近い球種になっていたのかもしれません。それが本番になると全くダメになる。そんなことでピッチャーをやることはなく、ほとんどキャッチャーかサードを守っていました。そんな職場での野球も数えるほどしかやっていなく、思い出も少ないけれど、あの練習でのピッチングのコントロールあれはかなり良かったと思うのだけれど、本番になると自分の気持ちのコントロールができず、持っている力を全く出しきれない自分だったことを思いだし、自分の性格と重ねている。、
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おしゃべり・・・3のつつき

2021-02-11 19:03:43 | 無題

 昨日書いた「おしゃべり」スキーのつづきです。小学校時代発電所の水槽の山といわれる今行ってみるとちょっとした丘でしかないけれど、子供にはいいスキー場で、回転を楽しむのではなく、ただ直滑降を楽しむスキーをしていた。スキーもストックも、まともなものはなく、古い単板のスキーての楽しみでした。昭和22年だと思うけれど、軍隊のスキーが出回って、私の家でも一式手に入れた。スキーの楽しみだけ知っていて、第三師範の本科に入学した時にスキー部に入ったのでした。その結果は昨日書いた通りなのですが、そのころ旭川の第三師範はインターハイのスキー大会で一部に入っていました。先輩に菊池さんという方がおられ、長距離、複合などでて得点をして一部に残っていたのです。自分の力も知らないまま、入ったものの継続することができなかった。この時、技術指導をしてくれる先輩でもいればよかったのですが、そんな方にも出合うことなく、ただ勝手に滑ることだけでした。それでも同期会などに出るとスキー部に所属していたと認識されたりもしました。沼田高校に努めるようになってスキーを復活したのですが、一度も指導を受けたことがなく、知らない間にスキー教室などが出来、スキーの指導要領までできていたのです。初めて指導員になっていた同期の方から、ウエデルンの技術を知らされ、愕然としました。又、スラロームの理論も全く無視して滑っている自分をしりました。美唄東に転勤して、初めて講習会に出て、二年目にようやく1級の資格を取得したのでした。講習を受けて、その必要性を実感しました。そのころ同僚の先生方にもスキーを楽しむ方が多くなり、年末にはニセコ比羅夫へ一泊のスキー旅行を毎年やっていました。基礎スキーと競技スキーは別物です。競技スキーは競技で鍛えなければ、わからない実践の厳しさがあります。どの競技でも同じだとおもいますが、頭で考える事と実践はかけ離れています。そんなことでしくじったこともいくつかあります。
 
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おしゃべり・・・3

2021-02-10 18:41:12 | 無題

 自分のダメなところはあまりさらしたくない。駄目なところを売りにすることは無理な話です。でも、自分の至らないところを振り返ってみたいと思う。
 好きでそうなったわけではないけれど、いろいろなことに手を出した。だけどどれも人並みにはならずじまいでした。運動では、スキー、卓球、バスケット、テニス、野球などをたのしんだ。どれも勝手に楽しんだだけで選手はもちろん、教えを受けたわけではない。中で一番得意だったのはスキーです。これも小学校の時まともな道具もないままみんなと遊んでいて、第三師範の本科一年に入ったとき、スキー部に入ればスキーが給付されるというので、入部してみた。しかし、スキーの用具は古い父の履いていたスキー靴があるだけで、ズボンもセーターも買うことができないままの貧相なスキー部員だった。練習にもろくに行くことができなく、一度だけ大会に出場させてもらって一年でやめたのです。
 大学を卒業して最初の赴任先が沼田高校だった。昭和28年に着任。此の当時沼田の街でスキーをやる人は、町からかなり離れた炭鉱の従業員くらいでした。スキー場は町から2Kくらい離れたところの夏は農地になる丘でした。たまたまスキー一式が手に入り、放課後一人で出かけスキを楽しみ始めました。しかし、コーチをしてくれる人もなく、見様見真似の練習をしていました。そのうちに仲間が増えてきて、特に体育の新しい先生がスキーを授業に取り入れることにするので、手伝ったほしいといわれ、体育のスキー授業の手伝いもしたりしました。そのうちに町の体育協会主催のスキー大会が開催されるようになり、私が中心のスキー大会みたいなものになりました。回転のボールのセッティングだとか、ジャンプ台を作ったりして面倒を見たものでした。そのころ、スキーの検定が行われるようになったのですが、たまたま大学の同期の方が深川の方で指導員の資格を取っていて、その方が検定を受けなさい勧めてくれ、体育の先生と二人で見てもらったのですが、きちんと習っていないので、何点か注意され、この次検定を受けてみましょうといわれた。その年に 美唄へ転勤となり、二年目に一級の資格をもらいました。これは頑張ったのですが、肝心な指導者がいなく、正式な練習をしないままま温情でいただいたようなものでした。そのあとそれなりの技術は身につけましたが、きちんと指導を受けていない弱点だらけのスキー1級でした。
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おしゃべり・・・・2

2021-02-09 19:37:59 | 無題

 おしゃべりで「口をすべらせた」というのがあります。話が弾みついつい本音の言ってはならないことを言ってしまうというやつです。
今回の森会長の発言は将にそれでしょう。40分ほどの演説の中で入ってしまったことのようだ。調子に乗って話していて、つい口を滑らせた言葉・・・しかしこれは冗談とかで済ませられない大問題なのだ。公式の場での発言であり、本音を言ってしまったのだ。場面も悪い。オリムピックの会議だ、オリムピック憲章に反する内容の発言になるわけで、そんな考えの方が大会委員長ではまとまるき話もまとまらなくなる。オリムピックが開催できなくなる可能性がある。
友達同士の飲み会などで話を盛り上げるのに口にしたのなら、笑って流すこともできるけれど今回は重い。とんでもないにとんでもない問題を・・・これは森会長の退任しかないでしよう。
 
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おしゃぺり・・・

2021-02-07 19:33:25 | 無題

 おしゃべりは相手がいなければ独りごとになる。コロナの問題が出て、外出しなくなったらおしゃべりが゜全くできなくなった。もともと話上手ではなく、友達も少ない。それでも居酒屋でお酒を飲みカラオケを歌いなからなら時間を忘れておしゃべりを楽しんだこともあった。話題がなくてもカラオケで楽しむこともできた。80歳過ぎまでは何かかにかの対外的仕事があって、その仕事を通しての友達との交流もあったけれど、そのような仕事もくなると考えることもすることもなくただ寝てばかりいる。是では病人ですね。部屋には書籍がまだ読まれいまま本棚にを埋めている。退職後ゆっくり読もうと思ったのに、暇はあるものの目が疲れて精がつつかない。今や読書は、詩吟の教材に関することを拾い読みするくらいだ。詩吟の稽古は一人でできるのだけれど、二階の部屋に火を入れて温めるのが面倒でそれもしない。将に半病人の暮らしです。、/div>
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写真機(カメラ) の思い出

2021-02-05 19:26:06 | 趣味

 バソコンを使うようになって、写真の現像もできることを知りCASIOiのデジカメを手に入れて何年か遊んだことがある。今CANONのデジと二台もっている。この二台目を手に入れたころから世間はスマホの時代となり。デジカメの時代が終わってしまった。おまけにパソコンも質が向上して、扱うことがむつかしくなってきた。暫く使わないでいたら新しく勉強しなおさなければダメになっていました。それほどのことはないと思いはするものの、もう初めにデジカメを使ったときのような情熱はなくなっている。昔は詩吟の大会などには必ず持参して、撮ってあげて喜んでもらっていた。今はみなさまスマホをお持ちで、写真にする必要が無くなっている。スマホの話になりましたが私は、AUのガラを持つだけ持っています。でもほとんど電話をかける用事もなくなってきていて、持って歩くのも面倒だから部屋に置きっぱなしにしている。スマホに変えても使えるようになるのに苦労すると思うし、それこそ持って歩かなければだめででしよう。今はその必要が無くなりました。退職して30年、此の間の世間の変化はものすごかった。間もなく91歳の誕生を迎える私たちには、ついてゆくことの難しいことが多くなりました。ブログだってもっと体裁の良いものにすればよいものを、それも面倒でここまで来ています。
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