下北沢本多劇場でパラダイス一座最終公演「続々オールド・バンチ~カルメン戦場に帰る」を観た。(作・山元清多、演出・流山児祥、音楽・林光、美術・妹尾河童)
演劇界の最長老・92歳の戌井市郎を筆頭に、瓜生正美、中村哮夫、本多一夫、肝付兼太、岩淵達治(映像出演)、ふじたあさや、二瓶鮫一など、出演人の平均年齢が80歳にもなろうという、まさに後期高齢者軍団が、捨て身の傾(かぶ)き方で歌い、踊り、芝居する楽しくも痛切かつ痛烈な祝祭の場を創り上げた。
確かにその表現は脂の乗り切った「時代の花」には程遠いかも知れないが、老いたるがゆえの「時分の花」「真の花」が舞台には見える。それは美しい花である。
そして何より伝わるのだ。彼らの息遣いが。気持ちが。
このパラダイス一座を企画し、演出した流山児祥は、「いつまでも演劇の原点である《運動》=出会いにこそこだわりたい」と書いているが、まさにそれぞれ活動のジャンルを超えて出会った表現者たちがその生き様を曝しながら演劇という「解放区」を現出させる場に立ち会うということは私たち観客にとっても一つの「事件」であるのに違いない。
私は遅れてきたアングラ世代の俳優であり、ある種の固定観念に縛られて物事をよく見ようとしなかったという反省があるのだが、アングラが一種の《運動》である以上、そこには運動体相互のぶつかり合いや出会いがあったはずで、反作用もあれば融合や同調もあったであろうし、化学反応も拒否反応もあったのである。
アングラであろうが、アンチ新劇であろうが、新劇そのものであろうが構わないが、そうした運動の中で様々な交流が行われ醸成されたものが時代を創っていったはずなのである。私はその点を見落としていたのではないか。
パラダイス一座の舞台を観て、私はそのことを学び直さなければならないと思った。
流山児祥が取り組もうとしているのは、そうした《運動》を意図的に引き起こす仕掛けであり、万人に伝えようとする熱いメッセージであり、ダイナミズムなのだ。
60歳を超えたわが師匠、《運動》する流山児祥からいま目が離せない。
演劇界の最長老・92歳の戌井市郎を筆頭に、瓜生正美、中村哮夫、本多一夫、肝付兼太、岩淵達治(映像出演)、ふじたあさや、二瓶鮫一など、出演人の平均年齢が80歳にもなろうという、まさに後期高齢者軍団が、捨て身の傾(かぶ)き方で歌い、踊り、芝居する楽しくも痛切かつ痛烈な祝祭の場を創り上げた。
確かにその表現は脂の乗り切った「時代の花」には程遠いかも知れないが、老いたるがゆえの「時分の花」「真の花」が舞台には見える。それは美しい花である。
そして何より伝わるのだ。彼らの息遣いが。気持ちが。
このパラダイス一座を企画し、演出した流山児祥は、「いつまでも演劇の原点である《運動》=出会いにこそこだわりたい」と書いているが、まさにそれぞれ活動のジャンルを超えて出会った表現者たちがその生き様を曝しながら演劇という「解放区」を現出させる場に立ち会うということは私たち観客にとっても一つの「事件」であるのに違いない。
私は遅れてきたアングラ世代の俳優であり、ある種の固定観念に縛られて物事をよく見ようとしなかったという反省があるのだが、アングラが一種の《運動》である以上、そこには運動体相互のぶつかり合いや出会いがあったはずで、反作用もあれば融合や同調もあったであろうし、化学反応も拒否反応もあったのである。
アングラであろうが、アンチ新劇であろうが、新劇そのものであろうが構わないが、そうした運動の中で様々な交流が行われ醸成されたものが時代を創っていったはずなのである。私はその点を見落としていたのではないか。
パラダイス一座の舞台を観て、私はそのことを学び直さなければならないと思った。
流山児祥が取り組もうとしているのは、そうした《運動》を意図的に引き起こす仕掛けであり、万人に伝えようとする熱いメッセージであり、ダイナミズムなのだ。
60歳を超えたわが師匠、《運動》する流山児祥からいま目が離せない。