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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

パラダイス一座を観る

2009-02-16 | 演劇
 下北沢本多劇場でパラダイス一座最終公演「続々オールド・バンチ~カルメン戦場に帰る」を観た。(作・山元清多、演出・流山児祥、音楽・林光、美術・妹尾河童)
 演劇界の最長老・92歳の戌井市郎を筆頭に、瓜生正美、中村哮夫、本多一夫、肝付兼太、岩淵達治(映像出演)、ふじたあさや、二瓶鮫一など、出演人の平均年齢が80歳にもなろうという、まさに後期高齢者軍団が、捨て身の傾(かぶ)き方で歌い、踊り、芝居する楽しくも痛切かつ痛烈な祝祭の場を創り上げた。

 確かにその表現は脂の乗り切った「時代の花」には程遠いかも知れないが、老いたるがゆえの「時分の花」「真の花」が舞台には見える。それは美しい花である。
 そして何より伝わるのだ。彼らの息遣いが。気持ちが。

 このパラダイス一座を企画し、演出した流山児祥は、「いつまでも演劇の原点である《運動》=出会いにこそこだわりたい」と書いているが、まさにそれぞれ活動のジャンルを超えて出会った表現者たちがその生き様を曝しながら演劇という「解放区」を現出させる場に立ち会うということは私たち観客にとっても一つの「事件」であるのに違いない。

 私は遅れてきたアングラ世代の俳優であり、ある種の固定観念に縛られて物事をよく見ようとしなかったという反省があるのだが、アングラが一種の《運動》である以上、そこには運動体相互のぶつかり合いや出会いがあったはずで、反作用もあれば融合や同調もあったであろうし、化学反応も拒否反応もあったのである。
 アングラであろうが、アンチ新劇であろうが、新劇そのものであろうが構わないが、そうした運動の中で様々な交流が行われ醸成されたものが時代を創っていったはずなのである。私はその点を見落としていたのではないか。
 パラダイス一座の舞台を観て、私はそのことを学び直さなければならないと思った。

 流山児祥が取り組もうとしているのは、そうした《運動》を意図的に引き起こす仕掛けであり、万人に伝えようとする熱いメッセージであり、ダイナミズムなのだ。
 60歳を超えたわが師匠、《運動》する流山児祥からいま目が離せない。

8×8の宇宙を泳ぐ

2009-02-16 | 読書
 小川洋子著「猫を抱いて象と泳ぐ」を読む。昨年の夏、雑誌「文學界」に3か月にわたって連載されていた頃から単行本になるのを待ちかねていた作品である。
 「博士の愛した数式」でとてつもない感動をもたらしてくれた作者が、今度はチェスを題材に選んだのはさすがに慧眼というしかないが、思えばチェスはこれまでも多くの映画や小説を彩るものとして様々に扱われてきているのである。
 ルイス・キャロルの諸作品はもとより、エドガ―・アラン・ポー、ボルヘス、ナボコフの小説群をすぐに思い浮かべることができるが、映画ではサタジット・レイの「チェスをする人」、監督名は忘れたけれど「ボビー・フィッシャーを探して」はチェスそのものが主人公のような映画だった。
 何年か前にリメークされた映画「探偵(スルース)」でもチェスのシーンがあったような気がするし、私立探偵フィリップ・マーローにとってチェスはなくてはならない心の友だ。最近のテレビドラマでは水谷豊演じる「相棒」の杉下右京が推理の合間にチェスの駒を動かしている。
 このようにチェスは絵になりやすいのだろう。あの駒それぞれの造形は本当に見飽きることがない。私も東急ハンズに立ち寄るたびにチェスのコーナーに並んだ数々の駒を眺めてはいつもうっとりしてしまう。

 かたや将棋はどうか。まず思い浮かぶのは映画や舞台劇にもなった坂田三吉の「王将」であるが、すぐに村田英雄の歌声が聞こえて来そうでいささか湿度が高すぎる。もちろん、わが国の推理小説には将棋をテーマにしたものもあるのだが、チェスほどには広汎に愛されていないように感じるのは私の偏見か。
 私が一番好きなのは寺山修司の映画「田園に死す」のワンシーン、青森県の田んぼのただ中で、主人公が記憶の中の自分である少年と将棋を指しながら会話を交わすところである。
 そういえば、寺山修司は普通のチェスのようにキングを詰めるのではなく、クイーンを詰める、すなわち人妻を奪うと勝ちになるというチェスを考案している。
 そんなチェスがあったら私も指してみたいと思うけれど、そのゲームではクイーンを守るためにキングは犠牲になるのだから、終盤、双方のキングが死んでしまった場合、相手の人妻を寝取るのはクイーンということになる。話がややこしくなるのではないだろうかなどといらぬことを考えてしまう。

 さて、「猫を抱いて象と泳ぐ」だが、美しい寓話のような小説である。11歳の身体のまま成長することをやめ、チェス人形「リトル・アリョーヒン」の中に身を潜めて詩のような棋譜を残し、盤上の詩人と評された実在のグランドマスター、アレクサンドル・アリョーヒンにちなみ、「盤下の詩人」と呼ばれるようになった少年の話である。
 具体的な地名も人名も出てこない抽象性の高い作品だから、読後の感動も結晶の純度が高くなる。それを詩的な傑作と評価するか、物足りないと感じるか、どう捉えるかは読む人それぞれの個性であり、特権でもあるだろう。