seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

寄り添うチェーホフ

2009-02-22 | 読書
 この数年、何度も何度も折りにふれて読み返しているのがチェーホフの短編小説「中二階のある家」である。
 それはたいていの場合、気力が弱った時だったり、忙しすぎて物を考える暇もないと泣き言を口にしたり、あるいはむかし愛したある人のことを思い出しては何も手につかないという時に何気なく手にするのだけれど、そんな自分にそっと寄り添って囁きかけてくれるような気のする作品なのだ。
 小説の最後、遠く離れてしまったひとのことを思い出しながら、こうして思い続けていると向こうでも自分を思い出してくれ、いつかきっと会えるのではないかという独白が胸を打つ。
 
 100年前の小説がこんなにも身近に感じられるのは何故なのか。
 郵便はもちろん、電話やメールなど、通信手段の飛躍的に発達した現代にいながら、この「相手を思いやる」という気持ちは100年前も今も変わりはない。
 いや、千年前の源氏物語の頃からだって変わりはないし、逆に言えば、小説を書くという行為の動機も手法も昔から少しも変わっていないのに違いないのだろう。

 原文を読めない私は翻訳に頼るしかないのだけれど、いま、おそらく4種類ぐらいは手にすることのできる本のなかで一番しっくりくるのは原卓也の訳かなあ。
 以下、引用して満足することにしよう。

 わたしはそろそろ、中二階のある家のことを忘れかけているが、ごくたまに、絵を描いている時や本を読んでいる時など、ふと、あの窓に映った緑色の灯とか、恋する身であったわたしが、家にかえって行きながら、寒さに手をすり合わせた、あの夜ふけの野にひびき渡ったわたしの足音などを、何とはなしに思いだすことがある。それ以上に時たまのことではあるが、孤独が胸をかみ、淋しくてならぬ時など、おぼろげに思い返しているうちに、なぜか次第に、向こうでもわたしを思い出し、待っていてくれ、そのうちにまた会えるに違いない、という気がしてくることさえある……。
 ミシュス、君は今どこにいるのだ?