seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

ゴッホが夢見た共同体

2009-02-19 | 雑感
 さて、前稿で「協同労働の協同組合」について紹介しながら私が考えたかったのは、役者をはじめ、アーティストや芸術を志す人たちの「働く場」ということである。
 無論、めざす表現の領域で「食える」ことができればそれにこしたことはないのだ。しかし、現実においてその割合は1%に過ぎないといわれる厳しい状況のなか、何とか表現活動と日々の生活をともに成り立たせる方法はないのだろうかと思い悩むのである。

 私は単純な人間だから、クラシック音楽の演奏者をめざす若者が、例えば音楽酒場のような場で酔客を相手に楽器を演奏したり、歌を唄ったりして糊口を凌ぐことに何ら拘りを持ってはいない。
 これに対し、今年75歳になる指揮者宇宿允人の言葉は私の浅慮をえぐって胸を衝く。
 以下、昨年11月の毎日新聞のインタビュー記事から一部引用。

 そば屋で働いている演奏家がいる。バーでバイオリンを弾いている女の子もいる。「おい、ねえちゃん弾いてみな」。酔客に言われ、だんだん惨めになって、才能のある子がやめていく。自分の音楽を安売りしちゃいけない。「君たち、楽な仕事しちゃだめだ。駅のトイレ掃除とかビル掃除をやれ。帰ってから手を洗い、オーボエ吹いたり、ホルン磨いたりするんだ」
 切ないですね。
 「切ないですよ」
(中略)拍手喝采が鳴りやまない客席に孤高の指揮者は語りかけた。「年金もらってぬくぬくしているなら死んだ方がいい。倒れるまで、死ぬまで、私は闘います。どうかこのオーケストラを育ててください」

 いつだったか、私は芸術家コロニーならぬ役者やアーティストたちによる協同労働体を秘かに構想したことがある。
 商業的に成功した劇団やテレビや映像で稼ぐことのできるタレントを多数抱える劇団は別にして、多くの場合、公演活動で黒字を出して「食える」のはまだまだ希少な例といってよいだろう。
 たとえば、そんな3つほどの食えない劇団、あるいは個々の役者が集まって協同体をつくるのだ。それぞれの集団は公演時期をずらし、1つの劇団が公演中は他の2つの劇団が仕事を請け負って収益をあげ、公演中の彼らのために生活費を稼ぐという、支え合いの仕組みである。
 役者をはじめ、劇団の人間はいわば職人集団でもある。大工仕事はもちろん、電気、塗装、家具修理、運送、清掃、植木の剪定、印刷デザイン、ペットの世話、話し相手、本や新聞の読み聞かせ、ヨガのインストラクター、マッサージ師などなど、ありとあらゆることに対応することができる。
 いま、地域社会が疲弊し、人と人とのつながりが希薄化しているなかで、営利を優先する企業体では対応できない地域ニーズに応えるコミュニティビジネスの芽はそれこそ数え切れないくらいにあるのではないか。
 アーティストとしてではなく、アルチザンとして地域社会に貢献しつつ、表現者としての道を生きる。そんな生き方は果たして絵空事に過ぎないのだろうか・・・。
 
 アルル時代の画家ゴッホは「黄色い家」を拠点として芸術家コロニーをつくろうと夢見ていた。
 その構想による共同体がどれほど現実的なものだったかは分からないが、ゴッホとゴーギャンの二人の共同生活は、強烈な個性と自我のぶつかり合いが焼けつくような心理の葛藤となって、例のあまりに有名な「耳切り事件」を惹き起こす。

 労働と芸術は決して折り合うことのできない永遠のテーマなのかも知れない。ゴッホはこの問題をどう考えていたのだろうか。まさか、パトロンたる弟テオへの依存を当然視していたわけではないと思うのだが。
 それゆえの焦燥や煩悶があの傑作群を生んだとも考えられるけれど、この問題への決着がつかない限り、アーティストによる「協同組合」も挑戦し甲斐のあるテーマではありながら、彼方にある夢に過ぎないのかも知れない。

協同労働という働き方

2009-02-19 | 雑感
 アルル時代の画家ゴッホは孤独のなかで仲間たちとの共同体をつくることを熱望していた。「黄色い家」を拠点として芸術家たちが集まり、共同生活をしながら創作に没頭できる場をつくろうとしたのだ。

 そんなことを思い出しながら、働く場をつくる、ということについて考えた。

 「協同労働の協同組合」という考え方を知ったのはつい最近のことだ。ひょんなことから、この「協同労働の協同組合」法制化市民会議の勉強会に参加する機会があったのだ。
 何のことかと思われるかも知れないが、簡単にいえば「みんなが労働者で、みんなで出資してみんなで経営する仕組み」のことである。
 過日、日本経済新聞のコラムでも紹介されていたが、介護、子育てなどをはじめとする様々な分野で、すでにこの「協同労働の協同組合」の理念のもと、3万人を超える人々が働いているとのことである。
 ただし、今は法的根拠がなく、法人格が持てないために自治体が行う請負契約の競争入札に参加できないなど、活動が大きく制限されている。
 そのため、NPO法人等の形をとって活動している組合が多いのだが、NPOはその性格上収益金を配当できないといった制約がある。
 そうした制約を打破するためにも「協同労働」の法制化が必要とされ、その実現を目指す活動が活発化しているのである。国会議員のなかにも多数の賛同者がいて、超党派での議員連盟も作られているという。坂口力元厚生労働大臣を会長とし、与野党を問わずそれぞれの代表が副会長を務めるという布陣である。
 すでに法案も出来上がりつつあると言われているが、一部保守系議員の中に慎重論があることや現下のねじれた国会情勢においてこれからどうなるのか、先行きは不透明である。

 今の労働法規が労使関係を前提にしているように、私たちは職を求める「求職」や「就職」という考え方にとらわれがちだ。そうした働き方ではなく、仕事をつくり、職を担う「創職」「担職」が必要になってきたというのが、この法制化を進める市民会議会長で前連合会長の笹森清氏の考えである。
 協同労働の可能性は地域の活性化にもつながる第一次産業において大きい。また、限界集落化している地域でも、協同労働なら働く場をつくれる、と言うのだ。

 雇用情勢が悪化の一途をたどり、雇用と求職のミスマッチが問題となっている今だからこそ、「雇い・雇われる」という働き方ではない「協同労働の協同組合」の法制化が求められていると言えるのではないだろうか。