seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

終の住処はどこに

2009-09-04 | 読書
 「彼による企画発案の商品は過去最高の売り上げを記録していた。(中略)成功の理由が何なのか、じつは彼じしんも判然とはしていなかった。いずれどこかの時点で、誰かが思いついたであろうことを、たまたまこのタイミングでこの役職にいた彼が実行に移しただけだ、という思いの方が強かった。効率的な組織というのは元来がそういう性格、構成員の代替可能性を内在するものなのだ。」

 磯憲一郎氏の芥川賞受賞作「終の住処」の中に上記の文章があって、妙な実感とともに同感するところがあり、記憶に残った。
 最近、私自身にそんなことを考えさせられる出来事があったからなのだが、個人が成し得る仕事の大半はそんなものかも知れないとも思う。
 担当していた事業やイベントで困難に遭遇し、どんなに身の細る思いで奮闘したあげくの成果であったとしても、数年経てば忘れられる。おまけにその部門のトップからは「そういえばあの頃、君も関わっていたよね」などと言われ、いたたまれない思いをする。
 割に合わないようだが、組織で仕事をするというのはそうしたことなのだ。それはビジネスだろうが、芸術だろうが同様なのだろう。また、そうでなければ組織は生き残れない。

 さて、その「終の住処」であるが、大企業に勤める優秀なビジネスマンの書いた小説ということがサラリーマンの関心を呼んだのか、はたまたテレビに出演した磯氏の素敵なおじさまぶりが若い女性の好感を引き寄せたのか、近年の芥川賞受賞作としては異例の売れ行きとのことである。
 もっともそんな目でこの小説を読むと、大半の人は驚くか、あるいは戸惑うかも知れない。
 この作品は、新聞報道等で要約された内容にはとても収斂されない謎や不可思議な展開によって構築された極めて小説的な世界を提示しているのだ。

 雑誌「文学界」9月号の磯憲一郎氏と保坂和志氏の対談で磯氏自身が「終の住処」について「要約するのが無理な小説である」と規定している。
 「僕の小説は、要約が基本的に馴染まないんですよ。具体性の積み重ねだけなんで。デビュー以来どの小説も、要約されると、気が狂った人が書いているとしか思えないようなもので・・・」

 よく引き合いに出されているのが、カフカやガルシア・マルケスを想起させるような展開ということであるが、それよりも私はこの小説を読みながら、突拍子もなく川端康成の「片腕」のような作品を思い出していた。
 どちらも書きつけられた文章が次の文章を導き、それがまた次の文章をつむぎだすという工程を繰り返しながら妄想としか言いようのない世界を構築していく。
 それはあらかじめ企図され、設計図のように構想されたストーリーなどではなく、文章をこつこつと書きつけることではじめて生まれる世界なのだ。

 このことを先の対談で作家の保坂和志氏は次のように言う。
 「ほんとに書きたいことなんていうのは『終の住処』がいい例で、書きながらしか出てこない。それはほんとに作品が、母とか妻とかが命令するように、著者に命令するんだよ。『もっとなんか突飛なことを書けよ』みたいな。その命令に従っているんだよね」

 小説が小説であることの存在理由を示している点において「終の住処」は優れた作品なのだと思う。