退屈な話
2009-09-26 | 言葉
チェーホフは私にとってなくてはならない存在の作家である。
どうしようもなく気分の落ち込んだ時や何もかもがうまくいかないような不運の時にもそっと寄り添い慰めてくれる。
私たちが否応なく社会的な関係のなかで生きるしかない以上、コミュニケーションは何よりも必要不可欠なものである。
コミュニケーション不全はそのまま組織や機能の不全につながりかねないし、友情や恋愛をはじめ、人間関係そのものも成り立たない。
コミュニケーションの手段としてもっともオーソドックスなものが手紙である。
チェーホフは、恋人でのちに妻となるオリガ・クニッペルに430通を超える書簡を残しているが、二人は、チェーホフの健康上の理由とオリガの舞台女優としての仕事の関係から、何百キロも離れたヤルタとモスクワに離れて暮らすことを余儀なくされた。
当時の郵便事情は現在とは比較できないほど劣悪で、届くのに何週間もかかったり、数日分が一度に届いたり、相互のやりとりもタイムラグのなかで行き違いも多々あったことが容易に想像できる。
チェーホフの書きぶりからもその苛立ちが伝わってくる。
「これはまたどうしたんです?あなたはどこにいます?あなたは私どもが全く推測に迷うほど強情に自分のことを知らせてよこしませんね。だからもう、あなたは私どもを忘れてコーカサスへお嫁にいったのだと思われかけていますよ」
「女優よ、手紙をください、後生です。でないと私は退屈です。私は牢獄にいるようです。そしてじりじりし、いらいらしています」
「きみからはもう久しく一行の手紙も来ない。これはよくないよ、可愛いひと」
「残忍酷薄な女、きみから手紙が来なくなってから百年もたった。これはどういうことだね?今は手紙も正確に私の手許に届けられる。だから、私が手紙を受けとらないとすれば、そのことで悪いのはきみ一人だけだ。私の不実者よ」
メールを送ってその日に返信がないだけでやきもきするような現代の恋愛事情からは想像もできない状況のなかではぐくんだ二人の愛情を、私たちはこれらの書簡を読むことで垣間見ることができる。
それらは私に共感と賛嘆とは別に羨望の思いをも抱かせる。
私たちはあまりに忙しく、優雅さや相手を思いやる心のゆとりを失ってしまっているのだ。
さて、これまでにも何度か話題にした短編「中二階のある家」に出てくるリーダとミシュスという姉妹はそれぞれに異なる魅力を持っているが、一人の女性の二面性を分けて描いたという見方もできるのではないかと私は思っている。
妹のミシュスはどこまでも優しくはかなげで主人公の私を慕ってくれるが、姉の言いつけに背いてまで私のもとに飛び込む勇気を持たない。
一方、姉のリーダは自立性に富んだ美しい女性だが、私とは思想や考え方で折り合いが悪く、私をかたくなに拒否したまま受け入れようとしない。
どの女性にもこうした二面性があり、私は様々な場面で様々な彼女たちと向き合うことになるのだが、一旦生じた決定的なコミュニケーション不全の状態や拒絶の前に男はただ立ちすくむしかない。
「やがて、暗いモミの並木道になり、倒れた生垣が見えた……あの当時ライ麦が花をつけ、ウズラが鳴きしきっていたあの野原に、今では牝牛や、足をつながれた馬が放牧されていた。丘のそこかしこに、冬麦が眼のさめるような緑に映えていた。きまじめな、索漠とした気分がわたしを捉え、ウォルチャニーノワ家で話したすべてのことが気恥ずかしく思われ、生きて行くことがまた以前のように退屈になってきた。家にかえるなり、わたしは荷造りをして、その晩のうちにペテルブルグに向った。」(原卓也訳)
最後の場面、主人公の私は、孤独が胸をかみ、淋しくてならないような時、おぼろげに昔を思い返しているうちに、向こうでもわたしを思いだし、待っていてくれ、そのうちにまた会えるに違いない、という気がしてくることさえある・・・というのだが、そんな日ははたしてやってくるのだろうか・・・。
「ミシュス、君は今どこにいるのだ?」
どうしようもなく気分の落ち込んだ時や何もかもがうまくいかないような不運の時にもそっと寄り添い慰めてくれる。
私たちが否応なく社会的な関係のなかで生きるしかない以上、コミュニケーションは何よりも必要不可欠なものである。
コミュニケーション不全はそのまま組織や機能の不全につながりかねないし、友情や恋愛をはじめ、人間関係そのものも成り立たない。
コミュニケーションの手段としてもっともオーソドックスなものが手紙である。
チェーホフは、恋人でのちに妻となるオリガ・クニッペルに430通を超える書簡を残しているが、二人は、チェーホフの健康上の理由とオリガの舞台女優としての仕事の関係から、何百キロも離れたヤルタとモスクワに離れて暮らすことを余儀なくされた。
当時の郵便事情は現在とは比較できないほど劣悪で、届くのに何週間もかかったり、数日分が一度に届いたり、相互のやりとりもタイムラグのなかで行き違いも多々あったことが容易に想像できる。
チェーホフの書きぶりからもその苛立ちが伝わってくる。
「これはまたどうしたんです?あなたはどこにいます?あなたは私どもが全く推測に迷うほど強情に自分のことを知らせてよこしませんね。だからもう、あなたは私どもを忘れてコーカサスへお嫁にいったのだと思われかけていますよ」
「女優よ、手紙をください、後生です。でないと私は退屈です。私は牢獄にいるようです。そしてじりじりし、いらいらしています」
「きみからはもう久しく一行の手紙も来ない。これはよくないよ、可愛いひと」
「残忍酷薄な女、きみから手紙が来なくなってから百年もたった。これはどういうことだね?今は手紙も正確に私の手許に届けられる。だから、私が手紙を受けとらないとすれば、そのことで悪いのはきみ一人だけだ。私の不実者よ」
メールを送ってその日に返信がないだけでやきもきするような現代の恋愛事情からは想像もできない状況のなかではぐくんだ二人の愛情を、私たちはこれらの書簡を読むことで垣間見ることができる。
それらは私に共感と賛嘆とは別に羨望の思いをも抱かせる。
私たちはあまりに忙しく、優雅さや相手を思いやる心のゆとりを失ってしまっているのだ。
さて、これまでにも何度か話題にした短編「中二階のある家」に出てくるリーダとミシュスという姉妹はそれぞれに異なる魅力を持っているが、一人の女性の二面性を分けて描いたという見方もできるのではないかと私は思っている。
妹のミシュスはどこまでも優しくはかなげで主人公の私を慕ってくれるが、姉の言いつけに背いてまで私のもとに飛び込む勇気を持たない。
一方、姉のリーダは自立性に富んだ美しい女性だが、私とは思想や考え方で折り合いが悪く、私をかたくなに拒否したまま受け入れようとしない。
どの女性にもこうした二面性があり、私は様々な場面で様々な彼女たちと向き合うことになるのだが、一旦生じた決定的なコミュニケーション不全の状態や拒絶の前に男はただ立ちすくむしかない。
「やがて、暗いモミの並木道になり、倒れた生垣が見えた……あの当時ライ麦が花をつけ、ウズラが鳴きしきっていたあの野原に、今では牝牛や、足をつながれた馬が放牧されていた。丘のそこかしこに、冬麦が眼のさめるような緑に映えていた。きまじめな、索漠とした気分がわたしを捉え、ウォルチャニーノワ家で話したすべてのことが気恥ずかしく思われ、生きて行くことがまた以前のように退屈になってきた。家にかえるなり、わたしは荷造りをして、その晩のうちにペテルブルグに向った。」(原卓也訳)
最後の場面、主人公の私は、孤独が胸をかみ、淋しくてならないような時、おぼろげに昔を思い返しているうちに、向こうでもわたしを思いだし、待っていてくれ、そのうちにまた会えるに違いない、という気がしてくることさえある・・・というのだが、そんな日ははたしてやってくるのだろうか・・・。
「ミシュス、君は今どこにいるのだ?」