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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

能の美しさ

2009-09-08 | 舞台芸術
 先週3日、観世流の能「玉井(たまのい)」を東京芸術劇場中ホールで観る機会があったので記録しておく。
 この作品は、「古事記」「日本書紀」にある海幸山幸の神話を題材に、観世小次郎信光が脇能にしたものとのこと。

 彦火火出見尊は兄の釣針を魚に取られ、剣を崩し針にして返したが許されず、元の釣針を求めて海中に入り、海神の都に着く。竜宮の門前に玉の井と桂の木があるので木の下で様子を見ていると、豊玉姫と玉依姫が水を汲みに現れ、井戸の水に映る尊に気づき、名や理由を尋ねて竜宮に案内する。
 姫の父母は尊の話を聞き、釣針を探す約束をしてもてなすうち3年が過ぎる。
 尊は自分の国に帰ることにし、海路の道を尋ねると豊玉姫は、海中の乗り物は様々あるので安心するようにと言って立ち去る。
 尊が待つところに二人の姫が現れ、潮満玉と潮干玉を捧げ、続いて現れた海王は釣針を探し出して尊に捧げ、二人の姫たちは袖を返して美しく天女之舞を舞い、龍王も厳かに舞ううちに時が移り、尊を五丈(約15メートル)の鰐に乗せると陸に送り届け、龍王も竜宮へ帰って行く。

 以上がおおよその筋立てであるが、そのラスト近く、龍王が舞い、尊を送り届けた後に帰って行く場面は何とも言えない美しさで観るものを圧倒する。それは装束や面、舞手の技量、鼓や笛、地謡が渾然となって生み出される迫力である。
 ちょうど同じ劇場の地下ホールでは、現代能とでも言うべき野田秀樹の「ザ・ダイバー」が上演されていて、そのどちらも海中にかかわる物語である点が共通していて面白い取り合わせだと思う。

 話は少し脇道に逸れるけれど、先日新聞のコラムに、プロの将棋を観戦した志賀直哉が、その感想を画家の梅原龍三郎に伝えた手紙のことが載っていた。志賀は次のように書いている。
 「精コンをあれ程傾けつくして戦い、その本統のところは少数の専門家にしか分からず、しかも一般にこれ程ウケているというのは不思議なものだ」

 能という芸術にもこの言葉は当てはまるのではないかなどと考えてしまう。
 能の継承者がどれ程精コンを傾けつくしてその芸を極めようと日々戦っているか。
 その芸の真髄は少数の人にしか理解はされず、しかも長い歴史という時間のふるいにかけられながらも人々の支持を得て根強く生き抜いてきた芸能・・・。

 それにしても「能」という古典芸能の持つ、観客に決して媚びることのない素っ気なさは見事というしかない。
 一場の舞を幽玄に舞い終わるやいなや拍手の暇も与えず橋掛かりを去ってゆく演者の姿は潔いものだ。これこそ何百年もの伝統に裏打ちされた絶対的な自信の顕れではないかとさえ思えるほどだ。

 私はクラシック音楽も好きでたまにコンサートホールに身を忍ばせることもあるのだけれど、あのカーテンコールのしつこさというか半ば強要しているとしか思えない臆面のなさには時に辟易することがある。
 それに引き換え、わが伝統芸術の何という奥ゆかしさよ、などと比較したり目くじら立てたりするのも大人気ないか。
 こんな他愛もないことをあれこれ考え巡らすのもまた舞台の楽しみ方のひとつなのだろう。