美術をはじめ、文学、演劇、ダンス、映画、アニメ等々、いずれの分野でもよいのだけれど、それを創る作家=アーティストがいて、それを鑑賞する観客、読者など受け手となる人々がいる。
また、その中間には、編集者や学芸員、制作者など、作品づくりをサポートする立場の人々がいる。さらには、スポンサーや出資者など、アーティストを物心両面で支援することに意義を見出す人たちもいるだろう。
創造された、あるいは創造されるであろう「作品=表現」を核としながら、様々な立場の人がそれぞれの欲求や考え方のもとに生活し、それが成り立っているという事実は思えばとてつもなく面白いことである。
アーティストの独自の表現=創造性=作家性はどこまで擁護されるべきなのかということについて考えたい。それは、守られるべきものではなく、作家自身が戦って得るべきものではないのか。
以下、考察のための個人的なメモ書きである。論理的には飛躍があるかも・・・。
時の為政者=権力者が文化を意のままにしようする欲望は洋の東西を問わない。彼らはみな、自らを称揚し、賞賛する曲を奏でさせ、詩を書かせようとする。
誰もが権力者ではないにせよ、誰でも自分好みの絵を描かせたがるものだ。
「月曜日は最悪だとみんなは言うけれど」(村上春樹編・訳)のなかにD・T・マックスが1998年8月のニューヨーク・タイムズ日曜版付録「サタデー・マガジン」に寄稿した「誰がレイモンド・カーヴァーの小説を書いたのか?」という文章が収められている。
カーヴァーの初期作品のいくつかには、編集者ゴードン・リッシュがかなり大幅に手を入れていたという事実が、新しい資料から発覚したことに端を発するこの記事は、アメリカ文壇および読書界に大きな波紋を与えたようだ。
「これは実のところ、編集というカテゴリーには留まりきらず、見方によってはむしろ「共同執筆」と呼んでもいいほどの大がかりなものであった。その事実は果たしてレイモンド・カーヴァーの価値を貶めることになるのだろうか?」・・・と村上春樹は解説に書いている。
ゴードン・リッシュの作家的欲望が編集者としての領分から足を踏み出してしまったのだ。
これはあまりに極端な例であり、到底受容し難い事実であるとしても、多かれ少なかれ、作家と編集者との間には、ある種の共同作業的な部分があるというのは事実だろう。
しかし、その共同作業であることが直ちに作家の創造性に疑問符を投げかけるものでないことは当然のことであると私は思う。
それは、作家の中にあって未だ見えないものをいかにより良い「表現」として読者=観客の前に引き出すかという、そのための「作業」にほかならないからである。
俳優と演出家の関係もまた同様の意味を持つ。
それがどの分野であれ、アーティストが作品を創り出す過程において関わるあらゆる人々によって触発され、批評されながら、より独自性の高い表現を創り、観客に作品を届けるためのより望ましい形へと昇華させるという作業は、必要不可欠なのだ。
美術館の学芸員の仕事は、美術作品固有の価値や作品が制作された背景などを社会的文脈のなかにきちんと位置づけ、解説しながら、鑑賞者のもとにより望ましい形で届けることをミッションとするものだろう。そのために展覧会場の配置や構成に苦心し、図録やパンフレットのなかに書く言葉を選ぶのだ。いかなる広報媒体を選び、そこでどのように作品の魅力を提示し、観客の関心を喚起するかという戦略もまた重要な仕事である。
同じ意味において、舞台芸術の制作者もまた、その作品が創られた意義や上演することの社会的な意味を観客の前に示すことで劇場に足を運んでもらわなければならない。
もし創り手の言葉が未成熟で、そのままでは無用な誤解を与え、観客のもとにきちんと伝わらないと思われた場合、それを正していくのは制作者としての責務である。
あらゆる表現=作品は、社会的関係性の中で生成され創造される。
その制作過程に関わるあらゆる人は、どのような形であれその作品に影響を及ぼし得るし、そうである以上、その作品がもたらす社会的な波紋や批判に対しても真摯に向き合い、責任を持たなければならないのだ。
アート作品が、時に社会的常識に異議を唱え、まったく新しい視点を提示すること、さらには権力者に徹底的な痛罵を浴びせさえすることは自明のことだ。アートとはそうしたものだからである。
しかし、健全な市民の営みを揶揄したり、無用に傷つけ、否定したりすることには留保条件をつけなければならないのではないか。
アーティストの言葉だからということでそれを無自覚なまま放置し、批判をシャットアウトしようとすること、対話の道を閉ざしてしまうことは制作者としての職務放棄であるとさえ感じる。
政治的中立の確保や「アームズ・レングスの原則」遵守は当然のこととして、創造の過程であらゆる声に耳を傾け、回路を開いていくことこそがこれからのアーティストには求められるのではないか。
独りよがりの表現者は、結局それなりのものしか得ることはできないだろうと思うのだ。
また、その中間には、編集者や学芸員、制作者など、作品づくりをサポートする立場の人々がいる。さらには、スポンサーや出資者など、アーティストを物心両面で支援することに意義を見出す人たちもいるだろう。
創造された、あるいは創造されるであろう「作品=表現」を核としながら、様々な立場の人がそれぞれの欲求や考え方のもとに生活し、それが成り立っているという事実は思えばとてつもなく面白いことである。
アーティストの独自の表現=創造性=作家性はどこまで擁護されるべきなのかということについて考えたい。それは、守られるべきものではなく、作家自身が戦って得るべきものではないのか。
以下、考察のための個人的なメモ書きである。論理的には飛躍があるかも・・・。
時の為政者=権力者が文化を意のままにしようする欲望は洋の東西を問わない。彼らはみな、自らを称揚し、賞賛する曲を奏でさせ、詩を書かせようとする。
誰もが権力者ではないにせよ、誰でも自分好みの絵を描かせたがるものだ。
「月曜日は最悪だとみんなは言うけれど」(村上春樹編・訳)のなかにD・T・マックスが1998年8月のニューヨーク・タイムズ日曜版付録「サタデー・マガジン」に寄稿した「誰がレイモンド・カーヴァーの小説を書いたのか?」という文章が収められている。
カーヴァーの初期作品のいくつかには、編集者ゴードン・リッシュがかなり大幅に手を入れていたという事実が、新しい資料から発覚したことに端を発するこの記事は、アメリカ文壇および読書界に大きな波紋を与えたようだ。
「これは実のところ、編集というカテゴリーには留まりきらず、見方によってはむしろ「共同執筆」と呼んでもいいほどの大がかりなものであった。その事実は果たしてレイモンド・カーヴァーの価値を貶めることになるのだろうか?」・・・と村上春樹は解説に書いている。
ゴードン・リッシュの作家的欲望が編集者としての領分から足を踏み出してしまったのだ。
これはあまりに極端な例であり、到底受容し難い事実であるとしても、多かれ少なかれ、作家と編集者との間には、ある種の共同作業的な部分があるというのは事実だろう。
しかし、その共同作業であることが直ちに作家の創造性に疑問符を投げかけるものでないことは当然のことであると私は思う。
それは、作家の中にあって未だ見えないものをいかにより良い「表現」として読者=観客の前に引き出すかという、そのための「作業」にほかならないからである。
俳優と演出家の関係もまた同様の意味を持つ。
それがどの分野であれ、アーティストが作品を創り出す過程において関わるあらゆる人々によって触発され、批評されながら、より独自性の高い表現を創り、観客に作品を届けるためのより望ましい形へと昇華させるという作業は、必要不可欠なのだ。
美術館の学芸員の仕事は、美術作品固有の価値や作品が制作された背景などを社会的文脈のなかにきちんと位置づけ、解説しながら、鑑賞者のもとにより望ましい形で届けることをミッションとするものだろう。そのために展覧会場の配置や構成に苦心し、図録やパンフレットのなかに書く言葉を選ぶのだ。いかなる広報媒体を選び、そこでどのように作品の魅力を提示し、観客の関心を喚起するかという戦略もまた重要な仕事である。
同じ意味において、舞台芸術の制作者もまた、その作品が創られた意義や上演することの社会的な意味を観客の前に示すことで劇場に足を運んでもらわなければならない。
もし創り手の言葉が未成熟で、そのままでは無用な誤解を与え、観客のもとにきちんと伝わらないと思われた場合、それを正していくのは制作者としての責務である。
あらゆる表現=作品は、社会的関係性の中で生成され創造される。
その制作過程に関わるあらゆる人は、どのような形であれその作品に影響を及ぼし得るし、そうである以上、その作品がもたらす社会的な波紋や批判に対しても真摯に向き合い、責任を持たなければならないのだ。
アート作品が、時に社会的常識に異議を唱え、まったく新しい視点を提示すること、さらには権力者に徹底的な痛罵を浴びせさえすることは自明のことだ。アートとはそうしたものだからである。
しかし、健全な市民の営みを揶揄したり、無用に傷つけ、否定したりすることには留保条件をつけなければならないのではないか。
アーティストの言葉だからということでそれを無自覚なまま放置し、批判をシャットアウトしようとすること、対話の道を閉ざしてしまうことは制作者としての職務放棄であるとさえ感じる。
政治的中立の確保や「アームズ・レングスの原則」遵守は当然のこととして、創造の過程であらゆる声に耳を傾け、回路を開いていくことこそがこれからのアーティストには求められるのではないか。
独りよがりの表現者は、結局それなりのものしか得ることはできないだろうと思うのだ。
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