「演劇はこの世界に必要なのだろうか」との問いかけを宮城聰氏が行っている。(16日付毎日新聞夕刊コラム)
「演劇が他者と出会うことを本質とする芸術であるなら、いまの世界から疎外された人々と向き合わなければ、真に試されたことにはならないだろう」という宮城氏の問題意識は明確だ。
宮城氏は、演劇の必要性には2種類あり、その両方を踏まえなければならないという。
1つは、難病の治療に取り組む最先端の医療機関のような存在としての必要性。
もう1つが、学校を補完する教育機関としての必要性である。
「百年に一度」とも言われる大不況の嵐が世界中に吹き荒れようとしている。
新聞もテレビも連日のように派遣切りや人員削減によって、職場や住居を追い出され、行き場を失った人々、格差社会のなかで疎外されようとする人々の問題を報道している。
まずは、政府や行政が何をすべきなのかが問われなければならないが、それと同時に、こうした人々にとって演劇とは、芸術とは何なのかという問いが突きつけられる。
飢えた子ども(人々)のまえで芸術は有効か、という何度も反芻してきたあの問題である。
世界的な不況が国内スポーツ界に大きな影を落とし始めたとの報道が新聞紙面をにぎわしている。西武アイスホッケー部や社会人アメフトの名門オンワード等の相次ぐ廃部や解散。自動車産業が絡むモータースポーツからのホンダや冨士重工業、スズキ等各社の撤退や参戦休止。米保険最大手AIGのテニススポンサー撤退、等々。
こうした心理的マイナスの連鎖がマイナーなスポーツや少数の観客に支えられた芸術文化に及ぼす影響は計り知れない。
いまこそ、アーティストやアートマネジメントに携わる人々は、単なる娯楽ではない、芸術文化の持つ有効性を世界に向かって叫ぶべきなのだ。
こんな時、いつも思い出しては勇気づけられるのが、サラエボ戦争のさなか、銃撃をも怖れず、「ゴドーを待ちながら」を観るために劇場に足を運んだ人々の話である。
翻って、わが国ではどうなのか。
杉村春子の生涯を描いた新藤兼人の著作「女の一生」に感動的な話が綴られている。
東京大空襲のあった昭和20年3月前後の話であるが、強制疎開がはじまり、稽古に俳優も集まらないという最悪の状況のなか、杉村春子はなんとしてもと「女の一生」の上演にくらいついて行く。稽古をはじめようと思っても、稽古場に借りる家が次つぎと空襲で焼けていく。だが杉村春子は諦めない。すさまじい執念である。
以下、小山祐士との対談をまとめた「女優の一生」からの引用。
こんな話をしてくれる杉村春子を私は無性に抱きしめたくなる。
みんな兵隊に行っちゃったの。(文学座の男たちは)来る日も来る日も出陣ですよ。そんなときだから、お客が来るなんて想像できないですよね。お客が来なくても、とにかくこっちは死ぬ前に一ぺんやりたいと思うだけですよ、私たちのために書かれた芝居を。そしたらね、「幕をあけろ」とかなんとかいうことになっちゃったということは、下をのぞいてみたら、ずうっと、防空頭巾をかぶった人が並んでいたの。地下に雑炊食堂があったから、みんな並びますね、雑炊食堂にね。だから雑炊食堂の客かと思ったら、そうじゃなくて、芝居を見るために並んでいたお客さんだったのですよ。大空襲があったんで「これじゃ人はこないだろう」と思っていたら、来たのです。舞台稽古もできていないのに、あけなくてはならなくなってきちゃったの、お客さんが来たんで。とにかくお客さんが来たんですよ、そんな大空襲があっても。つまり自分のところだけ焼けなければなにかを求めて来たのね、でも、そんななかでも俳優たちはみんな言ってましたよ、「やろう」って。
この「女の一生」は日本の戦争が終わるまでの日本の新劇の最後の舞台であった。
「演劇が他者と出会うことを本質とする芸術であるなら、いまの世界から疎外された人々と向き合わなければ、真に試されたことにはならないだろう」という宮城氏の問題意識は明確だ。
宮城氏は、演劇の必要性には2種類あり、その両方を踏まえなければならないという。
1つは、難病の治療に取り組む最先端の医療機関のような存在としての必要性。
もう1つが、学校を補完する教育機関としての必要性である。
「百年に一度」とも言われる大不況の嵐が世界中に吹き荒れようとしている。
新聞もテレビも連日のように派遣切りや人員削減によって、職場や住居を追い出され、行き場を失った人々、格差社会のなかで疎外されようとする人々の問題を報道している。
まずは、政府や行政が何をすべきなのかが問われなければならないが、それと同時に、こうした人々にとって演劇とは、芸術とは何なのかという問いが突きつけられる。
飢えた子ども(人々)のまえで芸術は有効か、という何度も反芻してきたあの問題である。
世界的な不況が国内スポーツ界に大きな影を落とし始めたとの報道が新聞紙面をにぎわしている。西武アイスホッケー部や社会人アメフトの名門オンワード等の相次ぐ廃部や解散。自動車産業が絡むモータースポーツからのホンダや冨士重工業、スズキ等各社の撤退や参戦休止。米保険最大手AIGのテニススポンサー撤退、等々。
こうした心理的マイナスの連鎖がマイナーなスポーツや少数の観客に支えられた芸術文化に及ぼす影響は計り知れない。
いまこそ、アーティストやアートマネジメントに携わる人々は、単なる娯楽ではない、芸術文化の持つ有効性を世界に向かって叫ぶべきなのだ。
こんな時、いつも思い出しては勇気づけられるのが、サラエボ戦争のさなか、銃撃をも怖れず、「ゴドーを待ちながら」を観るために劇場に足を運んだ人々の話である。
翻って、わが国ではどうなのか。
杉村春子の生涯を描いた新藤兼人の著作「女の一生」に感動的な話が綴られている。
東京大空襲のあった昭和20年3月前後の話であるが、強制疎開がはじまり、稽古に俳優も集まらないという最悪の状況のなか、杉村春子はなんとしてもと「女の一生」の上演にくらいついて行く。稽古をはじめようと思っても、稽古場に借りる家が次つぎと空襲で焼けていく。だが杉村春子は諦めない。すさまじい執念である。
以下、小山祐士との対談をまとめた「女優の一生」からの引用。
こんな話をしてくれる杉村春子を私は無性に抱きしめたくなる。
みんな兵隊に行っちゃったの。(文学座の男たちは)来る日も来る日も出陣ですよ。そんなときだから、お客が来るなんて想像できないですよね。お客が来なくても、とにかくこっちは死ぬ前に一ぺんやりたいと思うだけですよ、私たちのために書かれた芝居を。そしたらね、「幕をあけろ」とかなんとかいうことになっちゃったということは、下をのぞいてみたら、ずうっと、防空頭巾をかぶった人が並んでいたの。地下に雑炊食堂があったから、みんな並びますね、雑炊食堂にね。だから雑炊食堂の客かと思ったら、そうじゃなくて、芝居を見るために並んでいたお客さんだったのですよ。大空襲があったんで「これじゃ人はこないだろう」と思っていたら、来たのです。舞台稽古もできていないのに、あけなくてはならなくなってきちゃったの、お客さんが来たんで。とにかくお客さんが来たんですよ、そんな大空襲があっても。つまり自分のところだけ焼けなければなにかを求めて来たのね、でも、そんななかでも俳優たちはみんな言ってましたよ、「やろう」って。
この「女の一生」は日本の戦争が終わるまでの日本の新劇の最後の舞台であった。
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