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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

アーティストは国家に雇用されるべきか

2008-10-26 | アートマネジメント
 10月19日付の日本経済新聞朝刊に、2010年秋から新国立劇場舞踊部門の芸術監督に就任するデヴィッド・ビントレー氏の話が載っている。以下、記事の引用。
 「・・・(ビントレー氏は)英国でも芸術監督を務めており、兼務となるが、日本の特質を尋ねると『公演数が少ないこと』を挙げた。自身が率いる英国のバレエ団では、新作なら24回の上演が通例だという。対して(日本の)『アラジン』は6回だ。
 そもそも、バレエ団の構造が違うという。海外では通常、ダンサーには年俸などの給与が支払われる。だからバレエ団は、公演数をできるだけ増やして入場料収入を上げようとする。しかし新国立劇場では、報酬が出演1回につきいくらの、いわば出演料だ。公演数の増加は出演料支出のアップにつながってしまう。・・・
・・・『チャレンジにはお金がかかる。それを分かってもらえないと何もできない』」
 以下、感想。
 これを単に彼我のシステムの違いと考えればそれまでだが、それ以上に根深い問題がひそんでいるようにも思われる。
 たとえ国家が芸術家を雇用してでも、国民が文化に触れる機会を増やそうとする思想と、単に経済上の問題に卑小化し、支出を抑えることのみを効率化と称して評価する考え方の違い・・・。
 いやいやそうではない。そもそも公演数を増やそうにも、わが国にはその席数を埋めるだけの観客がいないのかも知れないのだ。いくら立派な劇場を建設し、よい作品を上演しても観客が集まらなければ興行は成り立たない。公演数の増加が入場料収入の増に単純には結びつかないというわが国の構造上の問題がここにはある。
 同劇場の演劇部門の芸術監督が、任期半ばにして交替を宣告された背景には、閑古鳥が鳴いて不入りだった演目の責任問題があったとも聞く。しかし、これは果たして芸術監督の責任なのか?
 かたや視聴率が稼げなくなったと言われて久しいプロ野球だが、それでも球場には毎夜何万人もの人が詰めかけ、サッカーの試合では興奮した観客同士が暴動を起こすほどだ。
 これを羨ましいと指を咥えているだけでなく、観客の育成に戦略的に取り組むことこそが国や公共劇場の役割ではないのかと思うのだがどうだろう。
 一方、アーティストの生活の窮状も大きな問題だ。非正規雇用やワーキングプアの問題が叫ばれて久しいが、昔から役者や芸術家の世界はそうした格差問題の温床である。
 そんなことは当たり前で、彼らは好き勝手なことをやっているのだから甘えたことを言ってはいけない、という声のあるのも確かである。しかし、ここで発想を変え、これを文化政策上の課題としてしっかり議論することが、今こそ求められているのではないだろうか。


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