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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

文化は必要とされているか

2008-10-26 | アートマネジメント
 10月22日の毎日新聞夕刊、「中島岳志的アジア対談」の中で早大教授の坪井善明氏(ベトナム政治・社会史)が次のように語っている。
 「・・・元々、日本は、思想や歴史、文化が生活実感と乖離している」
 「・・・さらに言えば、ベトナムでは、人びとが宗教や文化、歴史を生活の中で生かしている。日本は、あまりに経済中心で、文化や歴史が飾りもの化、記号化している。これと、日本社会の劣化は関係があるのでは」
 この言葉に半ば同感しながら、これを役者である自分に引き付けてどういうことかと考えてみる。これは文化の創り手側、発信する側の問題なのか、あるいは受容する側の問題なのか。おそらくそれは両方の問題なのに違いはない。
 「文化じゃメシは食えないよ!」と、芝居のチケットを売りに行った先で、商店街のオヤジさんたちにさかしら顔に言われることがある。
 言い返す言葉がなく、口惜しい思いをすることが多いのだが、本当にそうなのだろうか。そんなことはないと信じたい。ただ、生活者の視点に堪え得る、あるいは見返すだけの作品を創り得ていない自分に忸怩たる思いはあるのだが。
 以前、サラエボ戦争の時、スーザン・ソンタグがベケットの「ゴド-を待ちながら」を戦渦の現地で上演したという話を題材に広島正好氏が戯曲化した「サラエボのゴド-」という作品を上演したことがある。
 これはなにも戦争の悲惨を訴えたかったわけでも、平和の大切さを主張したかったわけでもない。そうした状況のもとでも、人びとは芝居を、芸術を求める、ということの素晴らしさに何ともいえない励ましを感じたからなのである。
 これに関しては、数年前偶然にも、NHKの衛星放送で、女優の木野花さんが現地を訪れ、その時「ゴド-」に出演した俳優にインタビューしたり、当時の舞台の記録映像を流したりするドキュメンタリー番組を見る機会があり、よりその思いを強くした。
 サラエボの人々は、銃撃のさなか、爆撃に見舞われることも厭わず、明日をも知れぬ状況下で、ベケットの不条理劇を観るために劇場に足を運んだのである。電気が途絶え、ロウソクの灯りを照明代わりにして演じられるゴド-の舞台に人びとは生きる糧を得たのだ。この文化の厚みの何たる凄さ!
 翻ってわが国の話。作家の島田雅彦氏が以前何かに書いていたと思うのだが、今や出版不況のなか、低迷する純文学文芸誌であるが、ベストセラーになった時期があるという。
 それは終戦直後のことであった。
 人びとは、食うや食わずの食糧難の時代、本屋の店頭に群がり、新たな時代の文学や思想を貪るように求めたのである。
 このことを、飽食の現代に生きる私たちはどう考えるべきなのだろう。文化や芸術のもつ力に勇気を与えられつつ、大きな宿題を目の前に突きつけられた思いにとらわれる。


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