2年間行方不明の女子中学生が、現役大学生に誘拐監禁されていたとい
う、実に珍しい事件が発覚した。逮捕された学生T(23)は、今春千葉大
学を卒業したばかりで成績は中ぐらい、礼儀正しい学生だったという。
航空機オタクという報道もあるが、悪人というよりは、どうも相手構わ
ぬ、過度の自己中心的性格者のようである。
最初にニュースを聞いたとき、大学生が単独で2年間も少女を監禁し続
けることが可能だろうか?という疑問を抱いた。監禁場所はアパートの
自室であり、学生なので授業だの就活だのとあっただろうに、どうやっ
て2年も監禁を継続し得たのだろうか。洗脳・脅迫されていた可能性も
含めて、少女も監禁環境の形成に「協力」的だったものか、又はそうせ
ざるを得なかったのか‥。
事件を報じるTVでは、千葉大学の理事とかいう方がカメラに向かって
頭を下げ謝罪している姿があった。日本社会では、不祥事等の発覚のた
びに、帰属組織の長などによる「謝罪会見」という儀礼が演じられる。
すっかり定番のお辞儀風景である。同校学生Tについて千葉大学は、卒
業の取消しをする方向だという。
しかしこの場合、大学とは謝罪すべき立場なのだろうか? またどうし
て犯罪をおかすと卒業が取り消されねばならないのだろうか。所定の卒
業に必要な単位を修得したのであれば、何人であれ卒業資格はあるので
はなかろうか? 今時大学生は教育消費者程度に過ぎない。授業料等の
対価を受けている大学が、卒業資格を与えない不履行は、契約違反では
ないのか? そもそも大学の学業と犯罪行為は、別個のものでは?
事件はTという個人の犯罪行為であり、大学は何も関係ないし悪くない
ので謝る必要は何処にもないと思う。どうして日本では、学校とか会社
という帰属先が責めの一端を担う立場になるのだろう。我が校の生徒が
とか我が社の社員がとか、帰属の一体性を強調する文言を以て、組織の
代表者なりが謝罪するのは、私にはどこかピンボケに見える。
大学に在籍中の誘拐監禁犯罪だったにせよ、刑事事件を裁くのは司法で
あり、帰属組織ではない。もし学生がオレ詐欺で老人を騙したり、スー
パーで万引きしたり、電車内で痴漢をしたという場合でも、マスコミが
報じ世間が騒げば、大学や教育機関とは、学生の卒業資格(入学資格で
も)を事後的にでも、取り消す正当な権限をもつものなのだろうか?
学校や会社が謝罪するのは、ある種の管理主義が背景にあるように思う。
例えば高校野球の世界では、野球部以外の生徒の非行でも新聞沙汰にな
ると、その学校は甲子園に出られないだのとなる。少年野球にクリーン
イメージを求め過ぎているというよりは、連帯責任という抑止力をも利
用して、所属者(生徒)への管理を強力に貫いているのである。
また日本社会においては、個人の人物よりも、帰属先・所属(学校・会社
さらに肩書)の知名度等に価値がある。それで個人が判断されたりする。
所属との一体性や帰属ばかりを重視する偏重が、日本社会には甚だ顕著
である。学校や会社という組織社会は、構成員を包摂しつつ自己完結し
たムラ社会を形成しつつ、ヒト目だの評判を気にしながら、小心よくよ
く世間(の風向き)に向き合っている。
おそらく大学組織にとって問題は、Tの罪や更生等の行末よりも、自ら
の世間体や体面を守ることだろう。それが最優先の必須課題である。不
祥事者には罰則や制裁を科してでも、社会的信用を保守しようとする。
このように組織という部分社会は、所属個人に対して、その優越的な立
場を利用した処罰権限をさえ留保する傾向を示すが、ここに、隠れた社
会権力の問題があると思われる。
学校・会社等組織という閉じたムラ社会は、個人の日常までチェックし
て管理し、時には何らかの制裁権限さえも独自に行使してよいとなると、
このような帰属組織の「権力」性とは、民主主義にとって相応しい代物
なのだろうか? (何らかの中立的で公正な統制機能が必要である。)
会社や学校という組織が、不祥事者個人に対して執り行う権限・権力の
行使(トカゲの尻尾切り的な)については、それの適否の度合いを監督等
する機関もなく、「組織パワハラ」にも繋がりかねない危険性を孕んで
いる。その恣意(私意)的行使については、大いに懸念と問題を感じる。
組織パワハラは優越的な地位の乱用であり、それを当然視して「社会的
制裁」だのと正当化し許容する社会は、民主社会に背反すると考える。
「個」を抹消させ秩序に服させることで安定を得ていること。帰属組織
という部分社会による個人への抑圧と管理が強固に働いているからこそ、
日本社会は「安全」で「平和」なのだ。(その分、自由が殺がれている!)
このような日本社会だからこそ、「個」とは一層尊重されねばならない。
ゆえに唐突だが、例えば憲法の「すべて国民は、個人として尊重される」(憲13条)等、絶対に改変すべきではない、良心の礎石である。
※ 誤解を恐れて付記するが、ここに記した論理は、誘拐監禁の容疑者
T氏を擁護する意図は、皆無である。犯罪はしかるべく手続きで当
局によって裁かれねばならない。
う、実に珍しい事件が発覚した。逮捕された学生T(23)は、今春千葉大
学を卒業したばかりで成績は中ぐらい、礼儀正しい学生だったという。
航空機オタクという報道もあるが、悪人というよりは、どうも相手構わ
ぬ、過度の自己中心的性格者のようである。
最初にニュースを聞いたとき、大学生が単独で2年間も少女を監禁し続
けることが可能だろうか?という疑問を抱いた。監禁場所はアパートの
自室であり、学生なので授業だの就活だのとあっただろうに、どうやっ
て2年も監禁を継続し得たのだろうか。洗脳・脅迫されていた可能性も
含めて、少女も監禁環境の形成に「協力」的だったものか、又はそうせ
ざるを得なかったのか‥。
事件を報じるTVでは、千葉大学の理事とかいう方がカメラに向かって
頭を下げ謝罪している姿があった。日本社会では、不祥事等の発覚のた
びに、帰属組織の長などによる「謝罪会見」という儀礼が演じられる。
すっかり定番のお辞儀風景である。同校学生Tについて千葉大学は、卒
業の取消しをする方向だという。
しかしこの場合、大学とは謝罪すべき立場なのだろうか? またどうし
て犯罪をおかすと卒業が取り消されねばならないのだろうか。所定の卒
業に必要な単位を修得したのであれば、何人であれ卒業資格はあるので
はなかろうか? 今時大学生は教育消費者程度に過ぎない。授業料等の
対価を受けている大学が、卒業資格を与えない不履行は、契約違反では
ないのか? そもそも大学の学業と犯罪行為は、別個のものでは?
事件はTという個人の犯罪行為であり、大学は何も関係ないし悪くない
ので謝る必要は何処にもないと思う。どうして日本では、学校とか会社
という帰属先が責めの一端を担う立場になるのだろう。我が校の生徒が
とか我が社の社員がとか、帰属の一体性を強調する文言を以て、組織の
代表者なりが謝罪するのは、私にはどこかピンボケに見える。
大学に在籍中の誘拐監禁犯罪だったにせよ、刑事事件を裁くのは司法で
あり、帰属組織ではない。もし学生がオレ詐欺で老人を騙したり、スー
パーで万引きしたり、電車内で痴漢をしたという場合でも、マスコミが
報じ世間が騒げば、大学や教育機関とは、学生の卒業資格(入学資格で
も)を事後的にでも、取り消す正当な権限をもつものなのだろうか?
学校や会社が謝罪するのは、ある種の管理主義が背景にあるように思う。
例えば高校野球の世界では、野球部以外の生徒の非行でも新聞沙汰にな
ると、その学校は甲子園に出られないだのとなる。少年野球にクリーン
イメージを求め過ぎているというよりは、連帯責任という抑止力をも利
用して、所属者(生徒)への管理を強力に貫いているのである。
また日本社会においては、個人の人物よりも、帰属先・所属(学校・会社
さらに肩書)の知名度等に価値がある。それで個人が判断されたりする。
所属との一体性や帰属ばかりを重視する偏重が、日本社会には甚だ顕著
である。学校や会社という組織社会は、構成員を包摂しつつ自己完結し
たムラ社会を形成しつつ、ヒト目だの評判を気にしながら、小心よくよ
く世間(の風向き)に向き合っている。
おそらく大学組織にとって問題は、Tの罪や更生等の行末よりも、自ら
の世間体や体面を守ることだろう。それが最優先の必須課題である。不
祥事者には罰則や制裁を科してでも、社会的信用を保守しようとする。
このように組織という部分社会は、所属個人に対して、その優越的な立
場を利用した処罰権限をさえ留保する傾向を示すが、ここに、隠れた社
会権力の問題があると思われる。
学校・会社等組織という閉じたムラ社会は、個人の日常までチェックし
て管理し、時には何らかの制裁権限さえも独自に行使してよいとなると、
このような帰属組織の「権力」性とは、民主主義にとって相応しい代物
なのだろうか? (何らかの中立的で公正な統制機能が必要である。)
会社や学校という組織が、不祥事者個人に対して執り行う権限・権力の
行使(トカゲの尻尾切り的な)については、それの適否の度合いを監督等
する機関もなく、「組織パワハラ」にも繋がりかねない危険性を孕んで
いる。その恣意(私意)的行使については、大いに懸念と問題を感じる。
組織パワハラは優越的な地位の乱用であり、それを当然視して「社会的
制裁」だのと正当化し許容する社会は、民主社会に背反すると考える。
「個」を抹消させ秩序に服させることで安定を得ていること。帰属組織
という部分社会による個人への抑圧と管理が強固に働いているからこそ、
日本社会は「安全」で「平和」なのだ。(その分、自由が殺がれている!)
このような日本社会だからこそ、「個」とは一層尊重されねばならない。
ゆえに唐突だが、例えば憲法の「すべて国民は、個人として尊重される」(憲13条)等、絶対に改変すべきではない、良心の礎石である。
※ 誤解を恐れて付記するが、ここに記した論理は、誘拐監禁の容疑者
T氏を擁護する意図は、皆無である。犯罪はしかるべく手続きで当
局によって裁かれねばならない。