脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

『ctの深い川の町』(岡崎祥久)を読んで。

2008年11月14日 15時25分42秒 | 読書・鑑賞雑感
秋空が晴れて、ゆるやかに陽が差している。
岡崎祥久という人の『ctの深い川の町』(講談社)を読んでいた。

薄い本だけど、今日中に図書館にこの本を返さないといけないので、
ザッと目を通してたら、一時間半で読みおおせた。
今の私には、これといった感想の浮かばない作品である。

岡崎氏の作品は初めて読んだが、「村上春樹」を思い浮かべたくなる
今時の作家の一人という感じである。もう少し岡崎作品に触れてみない
と、この人の持ち味がみえてこない感じがする。

本書の最後の方に、
「われわれというのは、それぞれが各個に開いた傷口のようなものだー
 と言うことはできるかもしれない。一筋の傷、長い傷や短い傷、深い
 傷や浅い傷、美しい傷や愚かな傷‥‥。だが、どのような傷であれ、
 これまで塞がらない傷口はなかった。
   (略)
 わたしという傷口からまだ血が流れているのかどうか、わたしには
 わからない。」
 (『ctの深い川の町』p107から引用。岡崎祥久著、講談社)

というような個所には、目が留る。このような「わたし」あるいは
このような気分を話の筋でではなく、文体そのもので初めて表現した
作家が村上春樹だったと思われる。
岡崎氏も、春樹の影響圏にあることは明らかである。

この私も「わたしという傷口」を生きているのかもしれない。
自分の傷口を人生に背負い、痛みを堪えながら生きるのなら、まだ
ましである。他人の傷まで引き受けて生きねばならない人生こそ、
本当に辛いものだと思う。

いや、人生とは、「わたしという傷口」とは、本当は「他者」によっ
て刻印されたもののこと、この他者性をどこまで覚悟して引き受けら
れるのかが、人生という試練なのだろう。

最も、このように哲学めいた「深み」に捉えた語りから距離をとる
スタンスに「村上春樹」以後の文学の成立があったのだとは思う。
敢えて「深み」へと、語りを、文学を、戻してはならないと思う。
でも私の評論家癖が災いして、つい「深み」語りをしてしまう。

現代文学は、語らず、各人の感じるままに味わえば、それで良いのだ。
さて、次の読み手に、図書館へ本を返しに行こうっと‥。





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