昨夕は、母方の大叔父の通夜に、私と母と母の従妹のTさん三人で、
タクシーに乗り込み、セレモニーホールへ出かけた。
喪主は、大叔父の長男で70代のSさんである。
母が電話でSさんに「主人の代わりに、長男が葬儀に出ますので」
という旨、事前に伝えた処、Sさんは不愉快そうな様子だったらしい。
そのせいか、母は私に、通夜だけ参席するようにというので、
Sさんは何が気に入らないのか知らないが、私は告別式は欠礼とした。
昨日は、通夜に出かける前から緊張していた。
抗不安薬や整腸剤を飲んで、いつもは掛けないメガネをかけた。
メガネをすると、視界は鮮明になるが、対人恐怖症の気味のある私には、
メガネは、自分の顔が隠れるような気がして、少し気楽になるのである。
人と目を合わせて話すことが自然と出来るようである。
私は緊張すると、トイレに行きたくなったり、イライラが高まるので、
人が大勢いる場所では、なるべく頭をカラッポにして外界を遮断する
ような感じに、脳を誘導しないとダメなのである。
困るのは、そうすると人に挨拶の言葉等を述べるのに、言葉が遅れるか、
拙劣な表現しか出てこなくなることである。
昨日も、ホールの廊下で喪主のSさんに始めに挨拶をしたのだが、
「おじいさんに、お線香を上げさせて頂きに伺いました。
どうぞ、よろしくお願いいたします。」
と子供じみた言葉しか、表現が浮かばず、口から出てこないのである。
Sさんは、私の物言いに、何か意表を衝かれたかのようだった。
通夜が終了して帰るときも、Sさんに、
「ごちそうになり、ありがとうございました。」と、
愛想も少なく、かろうじて口から出ただけだった。
私は、自分の脳は、生まれつき、
軽度ではあるが自閉症の人間の脳機能であると思っている。
普通の人並みの脳機能(社交性等)を発揮しようとすると、
不安障害が高まってしまうようである。
通夜から帰宅して、Tおばさんを交えて話をした。
Tさんは、親戚間の人間模様をよく知る情報通である。
親戚付き合いの薄い私は、喪主のSさんが五人きょうだいであり、
末の妹さんは、遥かの昔に自殺して亡くなり、他のきょうだいの
40代にはなる娘・息子にも、精神障害者や未婚者がいるという話
は、大いに私の興味を惹いた。
私の母でさえ初めて聞く話ばかりのようで、
どうも世間の人間というのは、世間体の悪いことには、フタをして、
身近な親戚にも隠そうとするもののようである。
つまり、誰の身近にも様々に「世間体の悪い」人々とはいるのである。
私なんかは、珍しい物でも自慢するように、
すぐ人に、精神障害の2級なんていう手帳を見せてしまうが、
それは世間体の感覚が違うからでもあるのだろうけども、
何で、それでいけないの?
良くも悪くも、人がみんな違っていて、当たり前じゃあないの。
葬儀の挨拶言葉にしても、もっと自由な表現でやれば、
窮屈な気分も減るのに‥‥。
通夜では、浄土真宗の僧侶が短い法話をした。
ある芸術家の話だったが、仏典の話より、余程気が利いていた。
葬式というのは、今尚、何か古臭い仕来りに縛られていて、
また親族の付き合いという人間関係も同様な気がする。
義理と形式ばかりで捏ね上がった、このような「世間」は、
早く滅んで貰いたい。
しかし、そうは願うものの、
世俗の習いに人の心があるのなら、
俗にまみれ、俗にもまれつつ、
それでも「俗に非ず、僧に非ず」と、
恬然と、私の求める道を信じたい。
タクシーに乗り込み、セレモニーホールへ出かけた。
喪主は、大叔父の長男で70代のSさんである。
母が電話でSさんに「主人の代わりに、長男が葬儀に出ますので」
という旨、事前に伝えた処、Sさんは不愉快そうな様子だったらしい。
そのせいか、母は私に、通夜だけ参席するようにというので、
Sさんは何が気に入らないのか知らないが、私は告別式は欠礼とした。
昨日は、通夜に出かける前から緊張していた。
抗不安薬や整腸剤を飲んで、いつもは掛けないメガネをかけた。
メガネをすると、視界は鮮明になるが、対人恐怖症の気味のある私には、
メガネは、自分の顔が隠れるような気がして、少し気楽になるのである。
人と目を合わせて話すことが自然と出来るようである。
私は緊張すると、トイレに行きたくなったり、イライラが高まるので、
人が大勢いる場所では、なるべく頭をカラッポにして外界を遮断する
ような感じに、脳を誘導しないとダメなのである。
困るのは、そうすると人に挨拶の言葉等を述べるのに、言葉が遅れるか、
拙劣な表現しか出てこなくなることである。
昨日も、ホールの廊下で喪主のSさんに始めに挨拶をしたのだが、
「おじいさんに、お線香を上げさせて頂きに伺いました。
どうぞ、よろしくお願いいたします。」
と子供じみた言葉しか、表現が浮かばず、口から出てこないのである。
Sさんは、私の物言いに、何か意表を衝かれたかのようだった。
通夜が終了して帰るときも、Sさんに、
「ごちそうになり、ありがとうございました。」と、
愛想も少なく、かろうじて口から出ただけだった。
私は、自分の脳は、生まれつき、
軽度ではあるが自閉症の人間の脳機能であると思っている。
普通の人並みの脳機能(社交性等)を発揮しようとすると、
不安障害が高まってしまうようである。
通夜から帰宅して、Tおばさんを交えて話をした。
Tさんは、親戚間の人間模様をよく知る情報通である。
親戚付き合いの薄い私は、喪主のSさんが五人きょうだいであり、
末の妹さんは、遥かの昔に自殺して亡くなり、他のきょうだいの
40代にはなる娘・息子にも、精神障害者や未婚者がいるという話
は、大いに私の興味を惹いた。
私の母でさえ初めて聞く話ばかりのようで、
どうも世間の人間というのは、世間体の悪いことには、フタをして、
身近な親戚にも隠そうとするもののようである。
つまり、誰の身近にも様々に「世間体の悪い」人々とはいるのである。
私なんかは、珍しい物でも自慢するように、
すぐ人に、精神障害の2級なんていう手帳を見せてしまうが、
それは世間体の感覚が違うからでもあるのだろうけども、
何で、それでいけないの?
良くも悪くも、人がみんな違っていて、当たり前じゃあないの。
葬儀の挨拶言葉にしても、もっと自由な表現でやれば、
窮屈な気分も減るのに‥‥。
通夜では、浄土真宗の僧侶が短い法話をした。
ある芸術家の話だったが、仏典の話より、余程気が利いていた。
葬式というのは、今尚、何か古臭い仕来りに縛られていて、
また親族の付き合いという人間関係も同様な気がする。
義理と形式ばかりで捏ね上がった、このような「世間」は、
早く滅んで貰いたい。
しかし、そうは願うものの、
世俗の習いに人の心があるのなら、
俗にまみれ、俗にもまれつつ、
それでも「俗に非ず、僧に非ず」と、
恬然と、私の求める道を信じたい。