梶原しげるアナウンサーといえば、70年代半ばに聞いていた「沢田研二・梶原茂 東海道ルート53次」ですわ。
70年代半ばから始まった「愛をもとめて」でポエムを読むジュリーの声にうっとり、「ラブコレクション」など、夜遅い時間から始まるジュリーのラジオ番組がどれほど楽しみであったことか。「日産サウンドフリーウェー」とか、日産提供の番組もありました。田舎でも、夜遅い時間になると、TOKIOのラジオ電波が入るんです。もっとも、ガーガーピーピー雑音交じりで、ろくに聴き取れない時もありましたけどね。聴き取れないまま終わってしまった時は、本当に悲しくガッカリしました。💦 あのガッカリ、ドンとした落ちこみ感、暫くは立ち直れないほどで、今でも忘れません。
顔が見えないジオは、TVで見るジュリーとは違う、素のジュリーと対峙している気がして嬉しかったし、新曲をいち早くかけてくれたり、次の仕事について話してくれたりするのがとても楽しみでした。
そんな中で、1976~7年頃の「沢田研二・梶原茂 東海道ルート53次」は、他とは毛色が違っていました。ポエムを読むようなロマンチックな番組とは違い、梶原アナウンサーとかけあいのある、お笑い要素の強い番組でした。東海道53次というだけあって、東海道の町を巡りながら梶原アナと各地の話を進めてゆくのです。梶原アナの声は、落ち着いた声とか低音とか、いわゆるアナウンサーらしい美声じゃなかったけど、個性のある声で軽くて明るく、ジュリーとのかけあいも息がピッタリで楽しかったな。(しかし、何故かこの番組がwikiには載っていないのはなんで?)梶原アナはジュリーのことを、ジュリさんと気安く呼んでいました。
とにかく、ジュリーに葉書を読んでもらいたくて、せっせせっせと高校時代から葉書を週に何枚かは出していた私、やっぱり面白いネタでもないと 当然読まれはしないのでございます。出し始めて苦節3年~4年くらいか、な~んも面白いネタなどもなく、ただ20歳になった誕生日を迎えた時に『10歳でタイガースファンになり、今は大学生で二十歳の誕生日を迎えました。おめでとうと言ってください。』と書いて出したら、梶原アナが読み上げてくれました。期待もせずに聞いていたので、ビックリ!!
ただ、梶原アナは私の苗字も名前も正確には読めませんでした。でも正確に読めない漢字の姓名なので仕方がない、以降からフリガナをつけて出しました。
梶原アナが、おめでとうと言ってあげてください、と呼び掛けたらジュリーが、幼い子供じみた口調で「おめでと~」それがどれだけ嬉しかったことか 梶原アナ、そういう思い出もあって、一生忘れないわ。
認知症をカミングアウトするには勇気がいったことでしょう、ジュリーと同年代、まだまだ頑張っていただきたいと思います。
今日の、Eテレ世界サブカルチャー史は日本の70年代、私がちょうどラジオを聞いていた時代と重なりました。流れた曲は「結婚しようよ」「神田川」「傘がない」、ジュリーの曲が流れないのは残念だけど、どれもが見事に時代の空気感を表していて、あの当時の日本人にまだ残っていた貧しさも、戦後とは違う、もっと上を向きたい上昇志向も感じました。
甘えたような声で歌うユーミンの「飛行機雲」には、多くの女性が憧れたんだろなとわかります。(ただし、私は憧れなかったけど。)同級生がアルバムを貸してくれたので聞きました、オシャレで良いとは思ったけど、はまりませんでした。私はジュリー様、一筋なのでね。陽水さんはなんていい声だと、うっとりして初めて顔を見たらイメージと違って、かなりガッカリした思い出が💦
番組で流れる当時の映像は、浅間山荘にオイルショック、日本列島改造論の田中角栄のだみ声が、とても懐かしかった。パンダに当時の若い女性のファッションも可愛い。
あの文太さんは「仁義なき戦い」で、凄みの有るアウトロー、といえば聞こえはいいが、実録ヤクザで怖い怖い ということは「太陽を盗んだ男」に出演した文太さんは、ヤクザから体制側に変わったんやなと、ようやくこの映画は文太さん自身の変化をも表していたのかと、知ったわけでした。ヤクザの文太兄さんに憧れていた男達は、この変身をどう思ったんだろう? 来週は、いよいよ「太陽を盗んだ男」が登場します。