15日付けの「予防のウソ」で書いたように私は「予防」という言葉に胡散臭さを感じている。医療や環境などで「予防」という概念が恣意的に使われてデマやデタラメが横行しているからだ。ところが「予防医療」という言葉が医療関係者の間では思いも寄らぬ意味で使われているということを最近知った。これは国民を病気から予防するという意味ではなく、患者から自分達が訴えられないように「予防」するという意味だそうだ。
どうやって予防するのか。インフォームドコンセントもその1つであり、匙加減をしないことも訴訟を避けるためのテクニックだ。本来、薬には匙加減が必要だ。薬の適正量は人によって異なる。子供と大人だけではなく体格や体質によっても違うだろう。200㎏の巨漢と平均的な体格の人の適量が同じとは思えないし、高齢者なら薬の成分を分解する機能が低下しているから少量あるいは少頻度にすべきだろう。
わざと匙加減をしないのは「予防」のためだ。薬が効かなくても、あるいは副作用が起こっても「厚生労働省の指針どおりに処方した」ということで責任を免れることができる。しかし本来すべき匙加減をしないことは患者を危険に晒すことになるし医療費の無駄遣いにも繋がる。
予防接種も匙加減をすべきだろう。体重の大小やアレルギーの有無に基いて木目細かく対処すれば副作用による事故はかなり減るだろう。そばや卵などの食品でさえアレルギー反応を起こす人がいるのだから、毒物でもあるワクチンの投与には細心の注意が必要だ。それを怠るのは基準通りの接種なら責任を問われないからだ。指示した厚労省も責任を取らないから、結局国民が責任を被らされることになる。何という無責任体質か!
どうやって予防するのか。インフォームドコンセントもその1つであり、匙加減をしないことも訴訟を避けるためのテクニックだ。本来、薬には匙加減が必要だ。薬の適正量は人によって異なる。子供と大人だけではなく体格や体質によっても違うだろう。200㎏の巨漢と平均的な体格の人の適量が同じとは思えないし、高齢者なら薬の成分を分解する機能が低下しているから少量あるいは少頻度にすべきだろう。
わざと匙加減をしないのは「予防」のためだ。薬が効かなくても、あるいは副作用が起こっても「厚生労働省の指針どおりに処方した」ということで責任を免れることができる。しかし本来すべき匙加減をしないことは患者を危険に晒すことになるし医療費の無駄遣いにも繋がる。
予防接種も匙加減をすべきだろう。体重の大小やアレルギーの有無に基いて木目細かく対処すれば副作用による事故はかなり減るだろう。そばや卵などの食品でさえアレルギー反応を起こす人がいるのだから、毒物でもあるワクチンの投与には細心の注意が必要だ。それを怠るのは基準通りの接種なら責任を問われないからだ。指示した厚労省も責任を取らないから、結局国民が責任を被らされることになる。何という無責任体質か!