俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

解決のための基準

2013-02-10 10:30:24 | Weblog
 対立する評価を総合的に判断する時、それは必ずしも論理的に正しくない。
 ある食品を「旨い」かつ「高い」と評価したとする。ある人は「旨いけれども高過ぎる」と判断して買わない。またある人は「高いけれども旨い」と判断して買う。どちらの判断も妥当であり得るのだからこの判断は論理的とは言えない。主観的な判断だ。判断をする主体は理性ではなく感情であり、先に、買うか買わないかを決めて後付けで論理が使われている。そしてこの感情はしばしばコマーシャリズムによって歪められている。
 逆に「不味いから買わない」なら論理的に正しい。評価が分裂していなければ論理的な判断が可能だ。
 不倫の女性ならこう考えるかも知れない。「私達は愛し合っている。しかし彼は既婚者だ。従って別れる。」これとは逆に「彼は既婚者だ。しかし私達は愛し合っている。従って別れさせる。」という論理も同様に可能だ。しかしこれは本当に論理的あるいは倫理的に二者択一を迫られる問題だろうか。このような形で問題が現れるのはあくまで西洋文化圏に限られる。イスラム文化圏なら「第二夫人になる」という合法的選択肢がある。彼女を困らせていたのは一夫一妻制という制度であってその制度が無ければ何ら問題は生じない。 
 問題が発生した時には法律などを根拠にして解決策が練られることが多いが法律はあくまでローカルなルールだ。倫理とは次元が異なる。法律に縛られ過ぎることは、コマーシャリズムに毒されるのと同様、偏った判断に繋がりかねない。

発癌リスク

2013-02-10 10:06:15 | Weblog
 私は発癌リスクの高い生活をしている。とは言え石綿の除去作業をしている訳ではないし、大気汚染の進む中国に住んでいる訳でもない。酒を飲み煙草を吸い日光浴を楽しむからだ。発癌要因と疑われている悪しき生活習慣を3つとも実践している。健康オタクなら「何と愚かな!」と思うかも知れない。自己正当化をするつもりは無いがこれらは訳あっての行為だ。
 大学で哲学を専攻したぐらいだから私には抑鬱傾向がある。すぐに自分を咎めてネガティブな感情に捕らわれ易い。こういう傾向を持つ者にとって、感情を落ち着かせ気分を明るくさせることは必要不可欠だ。この3つの「悪習」にはいずれもそういう効果がある。
 20年程前にグアムでポールダンサーと交わした会話が忘れ難い。彼女は喫煙する理由をこう説明した。「ダンサーの仕事はストレスが多い。だからストレスを緩和するために煙草を吸う。煙草は身体の健康(physical health)には悪いかも知れないが精神の健康(mental health)のためには役に立つ。」
 ストレスが多いと副交感神経が充分に機能せず免疫力が低下し勝ちだ。この意味で、ストレスこそ発癌の原因だ。ストレスが多い人は酒や煙草などによってストレスの緩和を図るから癌との相関関係が現れる。しかしこれは因果関係ではない。原因はストレスによる免疫力低下であり、抗癌剤以上に効果が期待できるストレス緩和策を発癌要因と見なすことは科学的に正しくないと思う。これは現場にいたという理由で警察と強盗を混同するようなものだ。