対立する評価を総合的に判断する時、それは必ずしも論理的に正しくない。
ある食品を「旨い」かつ「高い」と評価したとする。ある人は「旨いけれども高過ぎる」と判断して買わない。またある人は「高いけれども旨い」と判断して買う。どちらの判断も妥当であり得るのだからこの判断は論理的とは言えない。主観的な判断だ。判断をする主体は理性ではなく感情であり、先に、買うか買わないかを決めて後付けで論理が使われている。そしてこの感情はしばしばコマーシャリズムによって歪められている。
逆に「不味いから買わない」なら論理的に正しい。評価が分裂していなければ論理的な判断が可能だ。
不倫の女性ならこう考えるかも知れない。「私達は愛し合っている。しかし彼は既婚者だ。従って別れる。」これとは逆に「彼は既婚者だ。しかし私達は愛し合っている。従って別れさせる。」という論理も同様に可能だ。しかしこれは本当に論理的あるいは倫理的に二者択一を迫られる問題だろうか。このような形で問題が現れるのはあくまで西洋文化圏に限られる。イスラム文化圏なら「第二夫人になる」という合法的選択肢がある。彼女を困らせていたのは一夫一妻制という制度であってその制度が無ければ何ら問題は生じない。
問題が発生した時には法律などを根拠にして解決策が練られることが多いが法律はあくまでローカルなルールだ。倫理とは次元が異なる。法律に縛られ過ぎることは、コマーシャリズムに毒されるのと同様、偏った判断に繋がりかねない。
ある食品を「旨い」かつ「高い」と評価したとする。ある人は「旨いけれども高過ぎる」と判断して買わない。またある人は「高いけれども旨い」と判断して買う。どちらの判断も妥当であり得るのだからこの判断は論理的とは言えない。主観的な判断だ。判断をする主体は理性ではなく感情であり、先に、買うか買わないかを決めて後付けで論理が使われている。そしてこの感情はしばしばコマーシャリズムによって歪められている。
逆に「不味いから買わない」なら論理的に正しい。評価が分裂していなければ論理的な判断が可能だ。
不倫の女性ならこう考えるかも知れない。「私達は愛し合っている。しかし彼は既婚者だ。従って別れる。」これとは逆に「彼は既婚者だ。しかし私達は愛し合っている。従って別れさせる。」という論理も同様に可能だ。しかしこれは本当に論理的あるいは倫理的に二者択一を迫られる問題だろうか。このような形で問題が現れるのはあくまで西洋文化圏に限られる。イスラム文化圏なら「第二夫人になる」という合法的選択肢がある。彼女を困らせていたのは一夫一妻制という制度であってその制度が無ければ何ら問題は生じない。
問題が発生した時には法律などを根拠にして解決策が練られることが多いが法律はあくまでローカルなルールだ。倫理とは次元が異なる。法律に縛られ過ぎることは、コマーシャリズムに毒されるのと同様、偏った判断に繋がりかねない。