俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

嘘の価値

2013-02-24 10:24:50 | Weblog
 週刊誌はいい加減な報道をする。刺激的な記事を掲載することがこれまでの成功パターンだった。
 週刊誌がスキャンダル情報を入手すればそれを針小棒大に膨らませて記事にする。そのほうが面白い記事になるからだ。
 ゴシップ記事を書かれた政治家や芸能人などが名誉毀損として裁判所に訴えることは滅多に無い。虚偽を否定するためには事実を認定せねばならないからだ。仮に汚職を指摘された政治家が訴えた場合、裁判では事実と虚偽が分別される。そしてそのために証拠が集められる。これは政治家にとっては困ったことだ。大抵の政治家は脛に疵を持っている。虚偽であることを証明するためには事実部分を肯定せざるを得ない。つまり自ら墓穴を掘ることになる。だから告訴できない。
 芸能人も同様だ。嘘であることを証明するためにどこまでが本当であるかを確定することになる。これではスキャンダルの上塗りにしかならない。
 適度に事実を混ぜることが上手な嘘をつくためのテクニックだが週刊誌のやり方は正にこれだ。
 こういう事情で週刊誌はやりたい放題でデマを撒き散らしていたのだが、このビジネスモデルに狂いが生じた。要するにやり過ぎたのだ。告訴されないのをいいことに週刊誌はデマを並べ立てた。ところが余りにもデマを並べ過ぎたので、読者が週刊誌に情報価値を認めなくなってしまった。そのために大半の週刊誌が廃刊の瀬戸際にいる。
 これはイソップ寓話の「オオカミ少年」以上に、嘘をついたら結局、自分が損をするという教訓になる実話だろう。

言論の不自由

2013-02-24 10:02:25 | Weblog
 「五体不満足」の著者の乙武洋匡氏がツイッターに書いたピストリウス選手に関する記事に全面的に賛同する。それと同時に乙武氏のような障害者にしかこういう発言が許されていない日本の社会に対して改めて憤りを感じる。
 18日付けの「言論の弾圧」で、被害者は善良であり加害者が一方的に悪い、とするマスコミを批判したが、私が否定したいのはこういうステレオタイプでありそれに従わないことに対する弾圧だ。
 「障害者にだって(中略)ろくでなしもいる。(乙武氏)」そのとおりだ。それなのに健常者によるこの種の発言は許されない。差別発言と決め付けられるからだ。ろくでなしがいるという事実を指摘することがなぜ差別と扱われねばならないのだろうか。
 障害者であれ被害者であれ病弱者であれ、良い人もいれば悪い人もいる。それは当り前のことだ。悪い人を「悪い」と指摘して何が悪いのだろうか。一律に悪と決め付けたり善と決め付けたりすることこそ偏見であり是々非々が正しい姿勢だろう。
 今では発言が自由、それどころかバッシングが奨励されているようにさえ思える生活保護費の不正受給については、暴力団員による悪質な事例が発覚するまではタブーだった。このことが不正受給者を増やす要因となっていたことは間違いなかろう。
 このブレの大きさは困ったものだ。タブーと袋叩きの中間が欠けている。これでは冷静な議論にはならない。
 妙な「自粛」が存在する。「言ってはいけないこと」があり、それを決めているのは社会の「空気」だ。こんな空気に支配されている限り言論の自由はあり得ない。