歴史物語はfact、fiction、fantasyの3段階に分けられると思う。
まともな歴史書はfactだ。しかし何がfactであるかは難しい。例えば「民主党政権と東日本大震災」というテーマで100人が書けば100種類の歴史書が書かれるだろう。事実を把握する時点で既に価値判断が加わる。現代史でさえ難しいのだから情報が乏しい古代にfactを記録することは至難だ。ここでは「三国志」のレベルであればfactとしよう。
伝承はしばしば相矛盾する。全然違った話が伝わっていることも少なくなくどれが本当なのか判定し難い。この点「日本書紀」は素晴らしい。「一書に曰く」という形で様々な伝承を併記している。どれが事実か分からない場合には最も事実らしいものを本文に採用した上で註釈によって補完することが最善の選択だ。
factに記されていないことについては想像が許される。司馬遼太郎氏などによる歴史小説はあくまでfictionだがfactに基づく。誰がいつ死んだかなどを歪めることは許されないからそのプロセスを想像力で補ってドラマを演出することになる。「三国志演義」はこのレベルだろう。
factを無視すればfantasyになる。「三国志」で言えば月刊少年マガジンで連載中の「龍狼伝」などがそれに当たる。この漫画は現代人が三国時代にタイムスリップしたという設定で、登場人物のキャラクターはある程度「三国志演義」を踏まえているが、物語は歴史的事実を殆んど無視している。fictionはfactに基づくがfantasyではfactさえ無視して物語を作る。当然のことだがこれは最早歴史ではない。
「日本書紀」は天智・天武の時代についてはかなりの歪曲が見られるがそれ以外については正直であろうと努めているようで、都合の悪い話も堂々と記録として残されている。曖昧な記述もあるがこれは嘘を後世に残さないための精一杯の努力だと思える。この正直さは日本人の国民性だろう。その一方で王朝が代わる度に歴史を抹殺した国がある。恥ずかしい事実を記録に残したくないと考えたのだろう。factが無くなればfantasyが歴史の代用品になる。しかしこれは歴史の捏造だ。文字が無かったために歴史が残らないという例は多いが、文字があったのに歴史が残っていないのは異常なことだ。
「である」と「であるべし」はしばしば対立する。しかし少なくとも歴史と科学においては絶対に「である」に忠実でなければならない。どれほど醜くかろうともfactが優先されるべきであり、factよりもfantasyを好む人には正しい歴史認識は不可能だ。
まともな歴史書はfactだ。しかし何がfactであるかは難しい。例えば「民主党政権と東日本大震災」というテーマで100人が書けば100種類の歴史書が書かれるだろう。事実を把握する時点で既に価値判断が加わる。現代史でさえ難しいのだから情報が乏しい古代にfactを記録することは至難だ。ここでは「三国志」のレベルであればfactとしよう。
伝承はしばしば相矛盾する。全然違った話が伝わっていることも少なくなくどれが本当なのか判定し難い。この点「日本書紀」は素晴らしい。「一書に曰く」という形で様々な伝承を併記している。どれが事実か分からない場合には最も事実らしいものを本文に採用した上で註釈によって補完することが最善の選択だ。
factに記されていないことについては想像が許される。司馬遼太郎氏などによる歴史小説はあくまでfictionだがfactに基づく。誰がいつ死んだかなどを歪めることは許されないからそのプロセスを想像力で補ってドラマを演出することになる。「三国志演義」はこのレベルだろう。
factを無視すればfantasyになる。「三国志」で言えば月刊少年マガジンで連載中の「龍狼伝」などがそれに当たる。この漫画は現代人が三国時代にタイムスリップしたという設定で、登場人物のキャラクターはある程度「三国志演義」を踏まえているが、物語は歴史的事実を殆んど無視している。fictionはfactに基づくがfantasyではfactさえ無視して物語を作る。当然のことだがこれは最早歴史ではない。
「日本書紀」は天智・天武の時代についてはかなりの歪曲が見られるがそれ以外については正直であろうと努めているようで、都合の悪い話も堂々と記録として残されている。曖昧な記述もあるがこれは嘘を後世に残さないための精一杯の努力だと思える。この正直さは日本人の国民性だろう。その一方で王朝が代わる度に歴史を抹殺した国がある。恥ずかしい事実を記録に残したくないと考えたのだろう。factが無くなればfantasyが歴史の代用品になる。しかしこれは歴史の捏造だ。文字が無かったために歴史が残らないという例は多いが、文字があったのに歴史が残っていないのは異常なことだ。
「である」と「であるべし」はしばしば対立する。しかし少なくとも歴史と科学においては絶対に「である」に忠実でなければならない。どれほど醜くかろうともfactが優先されるべきであり、factよりもfantasyを好む人には正しい歴史認識は不可能だ。