俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

勝敗

2014-03-29 10:02:44 | Weblog
 27日に袴田元死刑囚の再審が決まった。事実上の無罪判決だ。今回の判決で最も注目すべきなのは「証拠を捏造」と認定したことだ。この事件だけではなくこれまでの総ての冤罪事件で捏造が行われている。
 ではなぜ検察・警察は捏造をしてまで犯人にしようとするのだろうか。裁判の目的が事実の解明ではなく勝ち負けだからだ。検察側も弁護側も正義ではなく勝つことだけを目標にする。勝つためなら手段を選ばない。だから捏造してでも勝とうとする。
 従軍慰安婦の強制連行をでっち上げた朝日新聞がいつまで経っても誤りを認めないのは、認めたら負けになるからだ。すぐに嘘であったことを認めずに誤魔化していたから後に引けなくなってしまった。ボヤのうちに消さなかったために全焼するようなものだ。負けないためには嘘に嘘を重ねざるを得ない。醜態であり全くの恥晒しだ。
 アメリカには今でも進化論を否定する人がいる。彼らは神による創造を信じている。彼ら自身、論理的に破綻していることに気付いていても負けを認めない。これまでの経緯を否定されたくないからだ。
 地震予測ができると主張する似非科学者がいる。一旦可能と言ってしまったから撤回できないのだ。だから無駄な研究をしてはデタラメな発表を繰り返す。やめたら負けを認めることになるのでやめられない。これは税金の無駄遣いであるだけではなく科学に対する冒涜であり詐欺に等しい。
 日銀の白川前総裁も自分の舵取りミスに気付いていただろう。しかしそれを認めたくなかった。もしかしたら好転するかも知れないと期待して誤った戦略を改めずに傷を広げた。
 科学であれ歴史であれ裁判であれ経済であれ、大切なのは勝敗ではなく真偽だ。メンツに拘っていれば恥の上塗りをせねばならない。誤ったと気付いた時点で謝っていれば済んでいたのに依怙地になることによって泥沼に嵌る。かつてソクラテスは「議論で負けたほうが誤りに気付いて賢くなれる」と言い切ったが、そんな賢者は余りにも少ないようだ。負けを認める潔さこそ望ましい。

生贄

2014-03-29 09:30:39 | Weblog
 現代人は文明人ではない。今尚、生贄を求める野蛮人だ。凶悪犯罪が起こると大衆は解決を求める。警察・検察は早急に犯人を挙げる。真犯人でなくても構わない。それで大衆が安心するからだ。大衆が求めているのは生贄だ。真犯人ではない。
 冤罪は同時に2つの罪を犯している。1つは無実の人を罰することであり、もう1つは真犯人を放置することだ。罰を免れた真犯人は味を占めて更に犯罪を重ねるだろう。
 イギリスで死刑が廃止されたのは冤罪事件が原因だ。死刑を執行したあとで真犯人が見つかるというとんでもない事件があった。これは究極の冤罪であり取り返しが付かない愚行だ。イギリスは流石に文明国であり、これに懲りて死刑を廃止した。日本でこんなことが起これば事実を公表せずにさっさと真犯人も死刑にして隠蔽したのではないだろうか。
 裁判だけではなく科学においても生贄が見られる。何であろうともCO2による地球温暖化が原因とされている。巨大台風の発生も関東地区の大雪も世界各地での旱魃も、みんなCO2が原因とされる。そんなバカな、と私は思う。これらの原因はCO2ではなく中国共産党だと言っても充分に通用するだろう。中国共産党が推進する大気汚染をこれらの原因と見なしてもCO2と同程度の信憑性があるだろう。生贄で満足していては問題は解決されない。真因が問われねばならない。
 因果に対する人間の判断力はかなり乏しいようだ。「人間はなぜ存在するのか?神様が創ったからだ」という馬鹿げた理屈が数千年に亘って信じられているのだから原因とされるものはその場凌ぎの言い逃れが大半だ。まともな理性があれば更にこう問うべきだろう。「人間を創った神様は誰が創ったのか?」と。私はこう答える「人間の、それもかなり愚かな人間の妄想が作った」と。