俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

嗅覚

2014-03-19 10:07:24 | Weblog
 人類の嗅覚は犬よりも遥かに劣るだけではなく多分、哺乳類の中では最低レベルだろう。これは奇妙なことだ。必要でない知覚などある筈が無い。実際に人は貧弱な嗅覚を補うために犬の嗅覚を利用している始末だ。動物の頂点に立つと自称する人類の嗅覚はなぜ退化したのだろうか。
 嗅覚の個人差は大きい。ある人には芳香であっても他の人にはきつい匂いであり鼻が曲がるような悪臭かも知れない。人類が臭い場所に住んでいたから嗅覚が鈍い人のほうが適者だったとも考えられる。しかしこんな単純な理由ではあるまい。むしろ人類が群居動物でありコミュニケーションに依存しているからだと考えられる。嗅覚は伝達不可能だから優れた嗅覚という特性が継承されなかったのではないだろうか。
 匂いは移ろい易い。ここからここにある、と示すことはできない。同じ場所にいる人の間でしか共有できない情報だ。音もその場限りのものだが、人類には声があるので似た音を再現することができる。しかし発香力は持ち合わせていない。
 視覚で捕えた事実は伝達できる。絵に描いたり名付けたりすることによって他者に伝えられる。ところが嗅覚は伝達できない。クサヤの干物であれニンニクであれ「臭い」としか表現できない。誰がこれらをきちんと伝達できるだろうか。化学者であれば化学物質名を使って表現できるかも知れないが部外者には通じない。芳香でも同じだ。せいぜい「○○のような香り」としか表現できない。群居動物にとって共有できない情報の価値は低い。
 伝達・共有できない能力が淘汰されるなら困ったことだ。個人には他者に伝達・共有できない長所もある。これらも嗅覚と同様に退化するということになる。つまり集団にとって価値の少ない個性は失われるということだ。私自身、子供の頃にはなぜか方位を知覚できた。狩猟採集時代には人類が共有していた能力だと思うのだが、私の方位感覚もそのうち失われた。多元価値の社会でなければ人類は多様性を失って同じような個体へと「標準化」してしまうのではないだろうか。

100年後

2014-03-19 09:33:07 | Weblog
 100年後を予想できるだろうか。それを考えるためには100年前に現代の生活を予想できたかどうかを調べてみれば参考になる。1914年の時点ではプラスチックもテレビも自動車もパソコンも無かった。そんな時代に100年後の生活を予想できるだろうか。当時のイギリスでは馬車の馬糞の処理が大きな社会問題になっていた。100年どころか50年後さえ難しい。映画「2001年宇宙の旅」は1968年に制作されたが映画で描かれた文明のレベルには未だ到達していない。
 17日に環境省の研究プロジェクトチームが「今世紀末には日本の平均気温は3.5~6.4度上昇する」と発表した。この内容は科学の名に値しない。科学を冒涜する恥晒しだ。科学が何たるかを知らない連中による科学を騙ったオカルトに過ぎず税金の無駄遣いだ。科学であるためには満たすべき条件が2つある。「検証可能」と「再現可能」だ。この発表はどちらも満たしていない。
 地球は1つしか無いのだから再現可能は最初から満たし得ない。だからこそ検証可能を絶対に満たさねばならない。ところがこの発表は80年後の危機を煽るだけだ。「砂浜の8割が失われる」とか「熱中症など暑さによる死亡リスクは最大13倍まで高まる」とか騒ぐだけだ。どうやって80年後に検証する気なのだろうか。当事者だけではなくこの発表を覚えている人さえ一人もいないだろう。だから間違っていても責任を問われることは絶対に無い。
 更に無責任なことには最初から責任逃れを用意している。「温室効果ガスがこのまま増えた場合」という一言だ。このまま増えるとはどういう意味だろうか。世界で年に何%増えるという意味なのだろうか。どの程度増えるのかが曖昧なままでどうやって「砂浜の8割が失われる」と予想できるのだろうか。全く的外れになっても「このまま増えなかった」と言い逃れできる。
 科学であるためには数値を具体化すると共に、少なくとも10年後・20年後に検証できなければならない。そのために途中経過も含めて発表する義務がある。もし10年後の予測が的外れであれば80年後の予測など全く無意味だ。今後の技術革新や中国などによる大気汚染が招くであろう寒冷化の恐れなどは全く考慮されていないだろう。こんな情報は科学ニュースではなく占い欄にでも掲載すべき類いだろう。