俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

梅雨入り

2015-06-05 10:12:08 | Weblog
 気象庁は3日に「近畿地方で梅雨入りしたと見られる」と発表したが、なぜこの時点で梅雨入りと見なしたのだろうか。4日の近畿地区の予報は殆んどが晴であり、実際に大阪の4日の天気はこの1か月でも最高と思えるほどの晴天だった。梅雨入りは5日以降としても良かっただろう。一方では梅雨入りとしてもう一方では翌日の天気を晴と予報する。これでは自己矛盾だ。
 自己矛盾のパラドクスは沢山ある。古くは「クレタ島の人はいつも嘘をつく」とクレタ島の人が語ったとするエピメニデスのパラドクスだ。「いつも嘘をつく」が正しければこの言葉は正しいが、それでは嘘をつかなかったということになってしまう。あるいは「私は嘘を言っている」も同様の矛盾に繋がる。かつて当時の首相の池田勇人氏が「私は嘘を申しません」と語ってマスコミを賑わせたが、このパラドクスを踏まえての言葉だろう。
 類例として「例外の無いルール(規則・法則)は無い」が挙げられる。仮に総てのルールに例外があるなら、このルールだけが例外の無いルールになってしまう。
 気象庁が一方で梅雨入りを発表し、その一方で翌日の天気予報で晴と発表したのは、長期と短期で担当者が異なるからだろう。しかしこんなセクショナリズムは迷惑だ。これは決して克服できない矛盾ではない。簡単に克服できる。翌日が晴と予想されるなら梅雨入りを翌々日以降に発表すれば済むことだ。たかが天気だから笑い話で済むが、これが安全宣言と危険告知であれば大変なことだ。自らの評価を下げることを平気で行えるのが今も続くお役所の体質だろう。他の省庁ならともかく、予報が本来業務である気象庁がこんなことを仕出かすとは全く恥ずかしいことだ。

カンニング

2015-06-05 09:40:21 | Weblog
 性格が悪いのは脳の病気のせいだろうか。最近の風潮ではこれも立派な病気とされ勝ちだ。異常が悉く病気とされることこそ異常なことだろう。病気の再定義が必要だろう。広辞苑によると病気とは「生物の全身または一部分に生理状態の異常を来し、正常の機能が営めず、また諸種の苦痛を訴える現象」とされている。本来の病気とは一時的な異常で治療可能なものだろう。だから老化は病気ではない。治療不可能なものであれば「障害」と呼ぶべきだろう。
 病気と似た概念として怪我がある。治療可能であれば怪我であり、治療不可能であれば障害とされる。骨折は怪我だが切断すれば障害になる。病気と比べれば区別が分かり易い。
 病気の概念が曖昧になったのは「呼ぼう医療」とも揶揄される予防医療が一因だ。心筋梗塞になり易いとして高血圧症が注目されたが、これがどんどんんエスカレートした。心筋梗塞の予防として高血圧症が、高血圧症の予防としてやや高めの血圧まで治療対象とされた。目的が忘れられて手段が目的化している。100点満点でなければたとえ99点でも不合格にされてしまった。限りなく白に近いグレーでも黒扱いされているのが現状だ。
 しかし治療に使われている薬とは一体どんな代物なのだろうか。これは単に血圧を下げる効果しか持たない。血圧が上がるメカニズムは全く放置して力付くで数値を下げるだけだ。検査数値だけを改善しても無意味だ。これはスポーツの後で早くなった呼吸や脈拍を薬で鎮めるような愚行だ。これはカンニングにも似ている。カンニングをすれば成績は上がるが学力は上がらない。原因を放置して血圧だけを下げることはカンニングによって成績を上げるようなものだろう。
 治療は目的を忘れるべきではない。高血圧が心筋梗塞の原因になり得るなら心筋梗塞の予防に有効な方法で血圧を下げるべきであって、血圧を下げることが自己目的化してはならない。