俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

無責任者

2015-06-13 10:07:23 | Weblog
 韓国ではトラブル続きだ。このことについて朴クネ大統領を無責任だと非難するつもりではない。責任者不在の状態、つまり無・責任者であることが国全体に蔓延していることが問題の核心だ。
 MERSの拡散についても責任者不在だ。皆が責任逃れに走るからどこに問題があるのかさっぱり分からなくなる。
 セウォル号の沈没事故では船長が真っ先に逃げ出したし、集まった救助隊は何をすれば良いのか分からずウロウロするばかりだった。船体改造の疑惑も曖昧なまま放置されているようだ。船長を断罪すれば済む問題ではなかろう。
 広島空港で起こったアシアナ航空機の事故もどこに問題があったのか解明されていない。
 これは国民性が生んだ悲劇だろう。韓国人が無責任だからではない。個人責任を追及し過ぎることが問題だ。事故があればすぐに「犯人探し」が始まる。原因を追及することよりも犯人の責任追及が優先される。当事者は犯人にされないために必死になって誰かに責任転嫁をしようとする。
 本当は多くの人に責任がある。複数の原因があるからこそ大事故が起こる。ところが誰もが他人に責任があると主張する。こんな状況で自分の責任を認めれば主犯として袋叩きに会いかねない。皆が保身に走るから原因は究明されない。
 大きな災害があればその責任を問うことより原因究明が急がれるべきだ。今更責任を追及しても犠牲者が生き返る訳ではないのだから、その主たる目的は再発防止であるべきだ。司法はこの立場に立つべきなのだがそれを許さないのが国民感情である恨(ハン)だ。国民が恨を主張する限り、司法もそれに沿わざるを得なくなる。司法まで一緒になってのリンチが始まる。
 「罪を悪(にく)んで人を悪まず」という立場が再発防止のためには最も有効だろう。そうであれば当事者全員が各自の軽微な過失を認めることによって再発防止へと繋がる。それを阻害しているのが国民感情である恨であり、この感情が強過ぎるから関係者は責任逃れに終始して、その結果として原因が究明されない、ということだ。
 実際には多くの責任者がいるのに皆が揃いも揃って責任逃れをするから責任者がいなくなっている。

周期性

2015-06-13 09:31:52 | Weblog
 確率が分かってもそれは周期性を意味しない。サイコロで6の目が出た次の試技で6が出る確率は1/6であり、他の目が出る確率と同じだ。6に賭けて5回続けて外れると「そろそろ6が出る頃だ」と考える人は確率の意味を理解していない。
 地震学者の多くは「ここでは200年に1度ずつ大きな地震が起こっている」と言って「そろそろ起こる」と言う。確率論で考えればこれは有意性を持たない。せいぜい1000年ぐらいしか検証していないのだからサンプル数はたったの5つだ。サイコロを5回振って5回とも偶数だったという理由から、次も偶数だと予測することと大差は無い。
 蓄積されたエネルギーが周期的に放出されるという仮説は科学的なようでありながら実は非科学的だ。地震よりもデータが豊富な火山の噴火でさえ周期性は殆んど証明できない。大抵、噴火してから「突然噴火した」とか「前兆があった」と報じられるように、比較的単純な噴火でさえ周期性は疑わしく、噴火以上に複雑なメカニズムで起こる地震に周期性を期待すべきではなかろう。
 周期性の考え方は女性には受け入れられ易い。それは彼女らの体が周期性を持っているからだ。男性の体には殆んど周期性は無い。考えてみれば周期性が確実なことは殆んどが地球の自転と公転が原因だ。地球が等速で自転と公転を続けているから四季や昼夜が周期的に現れる。逆に言えば、自転と公転に基づくもの以外で周期性を見出すことは難しい。地球上での周期性の正体は地球の運動の等速性だ。周期性とは等速運動が特殊な形で現れた現象に過ぎない。
 なまじっか身近に周期性が存在するから安易に何にでも周期性を認めようとする。これは誤謬推理だ。人口の増減であれ歴史であれ、これらに周期性は無い。あくまで因果性で説明すべきだ。ニーチェを否定するような表現になるが、世界は回帰しない。