俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

長寿

2015-06-15 10:18:59 | Weblog
 長寿は健康長寿を意味するべきだろう。寝たきりやチューブ巻き状態での長寿など何の意味も無い。外国には寝たきり老人は殆んどいないらしい。自力で生きられなくなった時点で枯れ死するのだろうか。少なくとも日本のように死にかけている老人を植物人間の状態で生き永らえさせるようなことはしないらしい。それなら日本が世界一の長寿国であるという統計的事実の価値が疑わしくなる。日本人は単に植物人間として長生きしているだけなのではないだろうか。
 もっと極端な例は頭部の移植だろう。世界中で中国のみで研究が進められているらしいが、頭を移植した場合、それは一体誰になるのだろうか。もし男の頭を女の体に移植した場合それは男なのだろうか女なのだろうか?私は頭部移植を全く考えていなかった。しかし考えてみれば脳移植よりも頭まるごとの移植のほうがずっと合理的だ。頭部には多くの神経があり、もし脳移植をした場合、視神経の接続だけでも大変な作業になるだろう。
 頭部の挿げ替えが医学的に可能になれば、「もし体が入れ替わって女性になったら何をしたいか」という馬鹿馬鹿しいが興味深いアンケートも無意味ではなくなる。「裸になって体を観察する」と「女風呂に行く」の2つがトップだった。私も妙に納得してしまう。もし頭部の移植が可能になったら「女の体が欲しい」と思うスケベ男は決して少なくなかろう。しかし何年で飽きるだろうか?
 もし脳だけを培養液に浸せば200年ぐらい生きられるのではないだろうか。もう少しまともな、首だけの培養でも150年ぐらいなら生きられるかも知れない。しかしこれらを長寿と呼べるのだろうか。
 極端なことを並べたが、寝たきり老人を生者と呼べるのかを問いたい。そもそも無理やり生かすことに意味があるのだろうか?
 仮に寝たきり老人が世界一多いのなら日本の長寿は「長生き」ではなく「長生かせ」に過ぎない。病院を儲けさせ、次世代に負担を強いているだけだ。PPK(ピンピンコロリ)が理想とされながら現実が植物人間であるならそのギャップは大き過ぎる。
 養鶏場は工場に似ている。雌鶏は産む機械のようなものだ。病院も植物人間の栽培工場のようなものだ。植物人間はただ生かされているだけであって、最早人間としての尊厳性を持っていない。無駄に生き永らえるよりも尊厳死のほうが好ましい。

不快

2015-06-15 09:41:11 | Weblog
 乱暴な定義だが、病気とは命に関わるものか不快感を与えるものではないだろうか。だから視力が高まるとか疲れないとかいった異常は病気とは見なされない。例外は精神病であり、爽快感や全能感などの本人にとっては不快ではない異常が周囲によって病気と判断される。
 最大の不快は痛みだろう。医療の多くは痛みからの解放を目標とする。しかし痛みには必ず原因がある。一番分かり易いのは怪我だ。怪我の痛みを無くすためにはその原因である怪我そのものの治療が必要であり、痛みの解消を優先すれば本末転倒になる。
 頭痛の原因は様々だ。最も日常的な頭痛である二日酔いや生理痛であれば放っておいても治るしその場凌ぎに鎮痛剤を使っても構わない。問題は脳に異常がある場合であり、手術によって根治を図るか放置して病気と付き合い続けるかは本人が判断せざるを得ない。
 痛みの原因が分かれば正しい対処があり得る。しかし原因が分からない場合は、痛み止めを処方して経過を見ることになる。容態が変わればそれから対処することになるし変わらなければ訳の分からないままズルズルと使い続けているのが現状だ。
 虫垂炎による腹痛であれば炎症箇所を切除すれば全快する。しかし対応を誤れば死に至ることもある。かつて横綱・玉の海は虫垂炎が原因で死んだ。7月に発症したが仕事を優先して薬で痛みを抑え、10月にようやく手術をしたが腹膜炎寸前まで悪化しており27歳の若さで亡くなった。
 痛みや不快感は症状ではなく警鐘として捕えるべきだろう。何らかの不具合があるから痛みなどの不快感が警鐘として現れる。警鐘をただの不快感と考えて薬の力で感じにくくすることは警報器のスイッチを切るような愚行だ。終末期医療以外では使うべきではなかろう。所謂対症療法は原因を放置して症状だけを緩和するのだから多くが有害だ。虫垂炎の痛みを抑えても病気を悪化させるだけだ。
 精神医療の多くは原因を無視する。薬によって作り出した異常状態によって苦痛を緩和するだけであり、麻薬やアルコールを処方するようなことが治療の名の元で行われている。これは薬物によるロボトミーだ。ロボトミー手術は一時期行われていたがその有害性が明白になって今では禁じられている。症状さえ軽減されるなら何でも許されるという訳ではあるまい。非常時での投薬までは否定しないが、対症療法一辺倒である現代の精神医学はフロイトの時代よりも劣化しているとさえ思える。