一部しか知らなくても否定することは許されるが、一部しか知らずに肯定することはできない。例えばある本を読み始めて余りにも稚拙な内容に呆れて中途で放棄してもその本を否定できるが、途中までしか読んでいない本を高評価することはできない。
一般に肯定は否定よりも難しい。新しい企画を実施することはボツにするよりも遥かに難しい。99の改善があってもたった1つの改悪を根拠にして否定できるからだ。何かに反対することでは一致できても、ではどうするべきかということになれば途端に議論百出してバラバラになってしまう。
私にとって最も不可解なのは護憲を唱える人々だ。現行憲法は悪文であり欠陥だらけだ。なぜこれを一字一句変えさせまいとするのか全く理解できない。
私は何度も憲法を通読・精読した上で「これではダメだ」と考えているのだが、一度も読んでいない人が「世界に誇るべき平和憲法を守れ」と主張することに違和感を覚える。なぜ実際に読みもせずに絶賛できるのだろうか。
これは書評を鵜呑みにする人と似ている。マスコミが名作と評価すれば名作と信じ、駄作と酷評すれば駄作と信じる。自分では全く評価をせずに誰かのオウム返しをしているだけだ。
なぜこんなことが起こるのだろうか。これは敗戦後のGHQによる言論統制の亡霊が今も蠢いているからだろう。言論統制の元では、米国や米国が作った憲法を批判することは許されなかった。しかし一旦、言論統制の元で世論が形成されてしまうと今度はマスコミはそれを批判できなくなった。批判すれば自分達が言論統制に加担していたことが明らかになってしまうからだ。だから言論統制下の延長でしか報道できなくなってしまった。戦前・戦中は最も好戦的だった朝日新聞は、戦後は一貫して護憲を唱え、中国と韓国には媚び続けている。これは当時のGHQの指針に今尚忠実であり続けているからだ。
これは嘘つきの心理に似ている。一旦嘘をついてしまえば保身のためには嘘をつき続ける必要が生じる。しかし嘘をつき続けることは良心の呵責を招く。これは辛い。このジレンマから逃れる最も巧妙な方法は嘘を真実だと信じ込むことだ。一旦虚構を作ってしまえばそれに背く話を拒絶できる。だからアメリカは常に正しく、原爆投下は正当であり、日本国憲法は完全無欠で、鬼畜のような日本軍が従軍慰安婦を強制連行したといったデタラメでさえ信じる人がいたし今でもいる。毒を食らわば皿までだ。
一般に肯定は否定よりも難しい。新しい企画を実施することはボツにするよりも遥かに難しい。99の改善があってもたった1つの改悪を根拠にして否定できるからだ。何かに反対することでは一致できても、ではどうするべきかということになれば途端に議論百出してバラバラになってしまう。
私にとって最も不可解なのは護憲を唱える人々だ。現行憲法は悪文であり欠陥だらけだ。なぜこれを一字一句変えさせまいとするのか全く理解できない。
私は何度も憲法を通読・精読した上で「これではダメだ」と考えているのだが、一度も読んでいない人が「世界に誇るべき平和憲法を守れ」と主張することに違和感を覚える。なぜ実際に読みもせずに絶賛できるのだろうか。
これは書評を鵜呑みにする人と似ている。マスコミが名作と評価すれば名作と信じ、駄作と酷評すれば駄作と信じる。自分では全く評価をせずに誰かのオウム返しをしているだけだ。
なぜこんなことが起こるのだろうか。これは敗戦後のGHQによる言論統制の亡霊が今も蠢いているからだろう。言論統制の元では、米国や米国が作った憲法を批判することは許されなかった。しかし一旦、言論統制の元で世論が形成されてしまうと今度はマスコミはそれを批判できなくなった。批判すれば自分達が言論統制に加担していたことが明らかになってしまうからだ。だから言論統制下の延長でしか報道できなくなってしまった。戦前・戦中は最も好戦的だった朝日新聞は、戦後は一貫して護憲を唱え、中国と韓国には媚び続けている。これは当時のGHQの指針に今尚忠実であり続けているからだ。
これは嘘つきの心理に似ている。一旦嘘をついてしまえば保身のためには嘘をつき続ける必要が生じる。しかし嘘をつき続けることは良心の呵責を招く。これは辛い。このジレンマから逃れる最も巧妙な方法は嘘を真実だと信じ込むことだ。一旦虚構を作ってしまえばそれに背く話を拒絶できる。だからアメリカは常に正しく、原爆投下は正当であり、日本国憲法は完全無欠で、鬼畜のような日本軍が従軍慰安婦を強制連行したといったデタラメでさえ信じる人がいたし今でもいる。毒を食らわば皿までだ。