俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

病の哲学

2015-06-26 10:27:27 | Weblog
 哲学は生全体を問う。生とは老・病・死を伴う。それにも拘わらず哲学は余りにも病に無関心だった。
 最も身近な病は風邪と怪我だろう。実は人間はこれらにさえ正しく対処できていない。この事実だけでも人間がいかに愚かなのかが分かる。
 風邪症候群を起こすウィルスは200種類以上確認されている。原因が多数でありながら症状がワンパターンである理由が問われねばならない。症状と考えられていたことは自然治癒力の発動と捕え直されるべきだろう。体温の上昇によってウィルスの活動は抑えられ免疫力は活性化される。解熱剤のような有害物が治療薬と詐称している現状は許し難い。
 自然治癒力は不快感を伴う。「良薬は口に苦し」と言うが、体を不快にすることによって安静を促している。その不快感だけを取り除くことは安静の妨害になる。痛み止めを打って連投する投手と同じ悲劇に見舞われる。
 怪我をすれば痛む。痛むからこそ極力そこを動かさないから治癒が促進される。痛みを取り除くことは治療ではない。いつからか分からないが、傷を消毒しないことが正しい治療法とされた。それまで長い間、傷を消毒するという誤った治療法によって却って傷を悪化させていたということだ。
 根本的な誤りは不快感を病気そのものと勘違いすることだ。熱や下痢や腫れや痛みなどは、自然治癒力の発動であり安静を促すための警鐘でもあるだろう。自然治癒力を症状と誤解するから敵ではなく味方を攻撃している。
 痛みや苦しみを取り除くことは治療ではない。投手の肩や肘の痛みを鎮痛剤で抑えることは治療ではない。胃痛を抑える薬は治療薬ではなく不快感を感じにくくしているだけだ。
 苦痛の軽減によって命を失うことさえある。睡眠薬、抗精神病薬、鎮痛剤などは特に危険であり、市販の総合感冒薬の副作用で死んだ人も少なくない。不快の除去のために命を懸けるべきではなかろう。抗癌剤に至っては殆んど毒物に等しくロシアンルーレットに賭けるようなものだ。
 尿管結石という病気がある。腎臓と膀胱を繋ぐ尿管にカルシウムの結晶が詰まる病気なのだが、不思議なことにこれを患うと脇腹が痛む。脇腹を幾ら治療しても痛みは治まらない。このように本当に病んでいる場所と人が感じる不快感が全然異なることは決して珍しくない。心身症やノーシーボ効果による不快感の原因は不快な箇所ではなく精神にその原因がある。これらは対症療法では治療できない。

失敗

2015-06-26 09:42:13 | Weblog
 失敗を恐れる人は少なくない。しかし失敗を恐れる余り、一生を台無しにすることもあり得る。
 新しいスポーツに挑戦して初めから上手くできる人などいない。これは当たり前のことだ。泳いだことのない人がいきなり泳げる訳が無い。イルカでさえ母親から泳ぎ方を教わるらしい。ライオンは母や姉妹などから狩りの仕方を教わっている。誰だって最初は初心者だ。失敗を通じて習得する。
 新しいことをすれば失敗する可能性が高い。だから新しいことへの挑戦は回避され勝ちだ。しかしイルカやライオンの例を考えるなら、失敗を避けるとは生きることを放棄するようなものだ。ニートや引き籠りのように外部と関わらなければ失敗の可能性は減る。しかしこれは草食化どころではなく亀化だろう。亀のように甲羅の中に立て籠もっているだけだ。
 どうせできないのなら、初めからやらないほうが得だ、という考え方もある。私はそれを否定しない。無駄な足掻きなど私もしたくない。しかし100mを10秒で走れと要求されている訳ではない。少しでもマシになり得るならやってみる値打ちはある。
 人類は臆病な動物だ。臆病だからこそ生き延びられたとさえ言える。しかし同時に最も好奇心の強い動物でもある。この矛盾する両面性があるからこそ繁栄できたのではないだろうか。
 成功するよりも失敗したほうが得るものは大きい。成功して得られるものは成功体験だが失敗すれば知恵が得られる。これは議論でも同じことだ。論破しても自己満足しか得られないが論破されれば賢くなれる。勝敗に拘ることは実に愚かなことだ。
 「艱難汝を玉にす」と言う。奇妙な話だがこの出典がよく分からない。英語からの訳文らしいが`Adversity makes a man wise'や`Adversities will make a jewel of you'など複数の候補がネット上で見られる。どれにせよここで言う「玉」は、角が取れて丸くなるという意味ではないのだから「珠」と表記したほうが正しかろう。「宝物」の意味だ。人は失敗を経て成長する。
 但し失敗には2種類あることを見逃すべきではない。積極的な失敗と消極的な失敗だ。雄々しく立ち向かった場合と問題を回避しようとした場合だ。前者であれば人事を尽くした末での失敗でありこれは糧になる。前者は名誉ある敗北であり後者は恥辱にしかならない。
 坂本龍馬は「死ぬ時は、たとえ溝の中でも前向きに倒れて死にたい」と語ったと伝えられている。責任逃れに汲々とする人々とは何と懸け離れた理想だろうか。前例踏襲主義に凝り固まった公務員にこんな気概は無い。
 新しいことをすればスポーツと同様、必ず失敗する。人とは失敗を通して学ぶ動物だ。失敗を恐れて傍観者に徹していれば進歩は無い。いつも同じ店で同じ料理を食べるのではなく、たまには違った店で珍しい料理を食べたほうが食べる喜びは広く深くなるだろう。