俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

脂質

2015-12-06 10:38:15 | Weblog
 兼業として米作りをする給与所得者であれば米を買う必要は無いが、米以外の商品を買わねばならない。人は米のみでは生きられない。
 脂質や蛋白質は現金と同じように汎用性がある。必須脂肪酸や必須アミノ酸という言葉があるように、体を正常な状態に維持するために欠かせない栄養素だ。ところが必須炭水化物という言葉は無い。炭水化物はエネルギー源としてしか使われない。三大栄養素と呼ばれながら炭水化物だけが異色であり全く摂取しなくても栄養障害は起こらない。炭水化物の長所は即効性だ。炭水化物を食べれば速やかにエネルギー源になる。すぐに血糖値を高めることは欠点と考えられ勝ちだが、飢餓状態においては大きな長所だ。
 脂質は1g当り9㎉で蛋白質や炭水化物は4㎉だ。このことから脂質が肥満の原因になると長い間信じられていた。この考え方の根本的な間違いは、カロリーという一元論で捕えていることだ。炭水化物はエネルギー源にしかならないが脂質や蛋白質は他の用途にも使われている。
 仮に脂質と蛋白質の9割が体の維持・向上のために使われているなら熱量に回る脂質は1ℊ当り0.9㎉、蛋白質は0.4㎉となり炭水化物よりも圧倒的に低カロリーの食品になる。アメリカでは低所得者のほうが肥満率が高いと言われている。ロイター通信社の2010年の調査によると、5万$以上の所得者の肥満率は24%で、1.5万$以下の肥満率は35%とのことだ。日本ではこの原因はジャンクフードと伝えられていた。しかし真犯人はジャンクフードではあるまい。ジャンクフードよりも安い食品、つまり麦や米やトウモロコシなどの穀類つまり炭水化物こそ犯人だろう。安い炭水化物を大量に食べればエネルギーとして使い切れないから体脂肪として蓄えられて肥満する。
 最初の寓話に戻るなら、現金は汎用性があるからすぐに使い切るし残っても嵩張らない。しかし米は米としてしか使えず保管のためには広い場所が必要になる。汎用性の高い脂質や蛋白質は現金のようなものであり、炭水化物は米に該当する。つまり脂質や蛋白質は大半が体作りのために使われて、汎用性の無い炭水化物が皮下脂肪として蓄えられるのではないだろうか。
 カロリーという一元論が根本的に間違っている。カロリーという尺度で見れば脂質は高カロリーだが、カロリーとして使われるのが一部に過ぎず大半が身体機能の維持・向上のために使われるのであれば、実質的には低カロリー食になる。
 

2015-12-06 09:52:30 | Weblog
 3日のクローズアップ現代で立花隆氏が「世界中の学者がメクラ同然の状態」と発言して、国谷キャスターが「不適切な表現があった」と謝罪する一幕があった。
 盲は放送禁止用語に指定されている。だから盲判や盲滅法は勿論、「盲蛇に怖じず」も使えない。これらの言葉は盲人(これも放送禁止用語で「視力障害者」と言い換えねばならない)に対する差別語とされている。
 汚い言葉、下品な言葉、差別あるいは誹謗中傷する言葉をテレビから排除することは必要だ。しかし行き過ぎではないだろうか。これではシェークスピアの「ベニスの商人」も放送できない。「恋は盲目(Love is blind)」という名言があるからだ。それとも「恋をすれば視力障害を招く」とでも言い換えるのだろうか。こんなくだらない規制をするより「イスラム国」という善良なムスリム(イスラム教徒)にとって許し難い呼称こそ一刻も早く規制すべきだろう。
 私は「群盲 象をなでる」という言葉が好きなのだが、これも放送禁止用語だ。これを「大勢の視力障害者が象をなでる」と言い換えても駄目だ。この言葉は視覚の重要性を強調するために盲人を引き立て役に使っており、差別という批判を免れ得ない。
 大勢の盲人が象をなでても象の実像は分からない。それぞれが一部に触って「象とは柱だ」「ホースだ」「紐だ」と発言しても全体像は把握できない。距離を取って把握することの必要性を見事に表現している。
 この比喩は現代医学の問題点でもある。部分にばかり拘泥して全体が忘れられている。内科医は多少血圧が高い程度の人にまで降圧剤を処方する。血圧が下がると脳に充分な血液が回らなくなり痴呆症(これも放送禁止用語で正しくは「認知症」)のような症状が現れることがある。内科医は精神異常(これまた放送禁止用語で「精神障害」)だから心療内科へ行けと言う。心療内科医が治療をしようとしてもこれはアクセルとブレーキを同時に踏んでいる状態だから治療は進まず両方の薬の副作用だけが現れるということになりかねない。こんな馬鹿なことにしないためには専門馬鹿(多分これも放送禁止用語)ではない全体を診る総合医療こそ必要だ。群盲にならないためには全体操を把握せねばならない。
 放送禁止用語のせいで表現が不自由になるだけではない。思考まで制約される。同性愛が異常かどうかは意見が分かれるところだが、放送禁止用語の存在がその是非まで決めてしまう。「同性愛は異常」とツィートしただけで差別主義者の烙印を押される現状こそ異常だ。「差別許すまじ」という信念が言論の自由の妨げになっている。テレビ局が自粛することは彼らの勝手だがその基準を普遍的基準と信じて異なる意見を封じ込めることは言論弾圧であり言葉狩りだ。差別は悪いことだがそれが拡大解釈され過ぎている。
 こんな言論の不自由などご免蒙りたい。今後私は敢えて放送禁止用語を多用したいとさえ考えている。