俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

役割

2015-12-11 10:29:16 | Weblog
 役割は相対的なものであり絶対的ではない。最も極端な例は魚の性転換だ。魚の種類によってかなり異なるが、一般にメスばかりを水槽に入れれば1匹がオスに、オスばかりであれば複数がメスに性転換する。これらの魚においては性でさえ相対的に決められる。
 人類の性は遺伝子によって決まるから魚のように性転換することは無いが、環境によって役割が変わる。男役割が重視される社会では女性が男性化し、女役割が重視されれば男性が女性化する。軍人に同性愛者が多いのは女性が少ない社会だからだろう。
 男役割と女役割があることは必ずしも不合理ではない。力が強いほうが重い荷物を持つべきだろうし、平等に働くよりも多く稼げるほうに依存したほうが得だ。たまたま夫婦の特性が通常と逆であれば役割を逆にすれば良い。但し肉体的にはともかく精神的には男のほうが弱いと思う。か弱き男を保護する必要がある。また肉体的にも、動物的能力はともかく寿命や耐性などの植物的能力においては女性のほうが優っていることも認められるべきだろう。強者は強そうに見せる必要は無いが弱者は強そうに見せないと舐められる。このことは動物一般だけではなく人間についても当て嵌まる。
 老々介護において、年齢や性別ではなく、少しでも元気なほうが相手を介護する。弱いという概念も相対的だ。
 特に哺乳類において顕著なことだが、オスは競争的、メスは協調的な性質を持つ。群居動物である人類は元々協調的な動物だ。協調的であることこそ本来の姿なのだが、生存競争を生き抜くためには競争的であることが必要になる。オスとは競争のために作られたサイボーグ戦士なのではないだろうか。
 哺乳類の原型はメスだ。たとえY遺伝子を持っていても胎児の時点で男性ホルモンを大量に吸収しなければ男性の体に変態することはできない。男性ホルモンを受容できないアンドロゲン不応症の人はたとえY遺伝子を持っていても女性の体のままで生まれ成長する。オスとは不自然な動物だ。滑らかにに作られている人体で継ぎ目があるのは頭蓋骨と男性性器だけらしい。
 「夫とは鵜飼の鵜のようなものだ」という意見がある。鵜匠である妻の家畜だ。余り良い役割とは思えない。無理やりオスにされたせいか、男役割が苛酷なせいかは分からないが男の自殺率は女より遥かに高い。日本は「男はつらつ」の社会ではなく「男はつらい」社会だろう。
 専業主婦という立場は夫に依存しているようでありながら、実は金も家庭も支配し、子供まで独占できる優越的な地位なのではないだろうか。妻にとって家庭の外は元々どうでも良い世界であり、夫が外で何をしようと充分な獲物(金)さえ貢がせれば充分だ。多くの女性が専業主婦を志すのは、鵜ではなく鵜匠になりたいからではないだろうか。

潜在能力

2015-12-11 09:44:51 | Weblog
 先日、危うく死を免れた。やはりと言うか案の定と言うべきか、自転車運転中での事故だ。私の自転車の後輪に横から来た自転車がぶつかった。これが前輪であれば私にも責任があるが、後輪にぶつけられては防ぎようが無い。先方の前方不注意か運転ミスだろう。
 自転車が横からの力に弱いということを改めて思い知らされた。思わぬアクシデントのためにハンドル操作ができなくなり歩道から車道に放り出された。私はいつも歩道の車道側を通っており、これが安全性の向上に繋がっていると考えていたが思わぬ弱点があった。しかしこんな話よりも興味深いのはその時の私に起こった心理現象だ。
 車道に飛び出した私に右から自動車が迫って来た。ここまでは主観的時間が早く動き周囲の動きがゆっくりと見えた。しかし困ったことに運動能力は通常のままだから危機が迫っても早く動ける訳ではない。諦めかけたところから記憶が欠落している。跳ねられそうになっていた筈の車の脇にもたれ掛かっているところからしか記憶がない。これは一体どういうことだろうか。
 死を覚悟した瞬間から意識が抑えられたのだろう。意識的な活動では間に合わない状況で無意識が稼動したと思える。つまり思考ではなく「反射」によって行動したということだ。多分、私は自転車を倒しかなり無理な動作をして歩道側へ逃げたのだろう。もしかしたら人間離れした動作をしたのかも知れない。両手や顔などぶつけた覚えの無い場所に多数の傷があり足首や手首も痛い。どう動いたのかさっぱり分からないがとにかく助かった。
 かなり派手に倒れたらしく「救急車だ」とか「警察を呼べ」という声が聞こえ野次馬も集まったので、私は「大丈夫です」と叫んで大慌てで逃げ去った。
 思い掛けないことによって、意識が飛ぶということを実体験することになった。主観的時間を早めても対処できないほどの緊急事態になれば潜在意識が働いて適切な行動を取らせるのだろう。事故で助かった人は無我夢中という言葉をよく使うがこれと同じものだろうし、火事場の馬鹿力が現れるのもこんな状況においてだろう。
 多分、清原和弘氏だったと思うが「頭部にデッドボールを受けた前後の記憶が無い」と語るプロ野球選手がいた。これは恐怖の記憶が抑圧されたのではなく、危険に際して意識モードから無意識モードに切り替わったから記憶に残っていないのではないだろうか。
 これらの潜在能力は科学的には実証されていない。しかし科学が証明していなくても無視しようとは思わない。科学が解明すべきことはまだまだ沢山ある。私はオカルトを毛嫌いするが、人間の潜在能力の研究が充分に尽くされているとは思えない。大体、キャッチボールで上手く投げる方法でさえ科学的に解明できない。フォームを意識すればするほどギクシャクしたフォームになってしまう。