俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

ダンス

2015-12-15 10:37:06 | Weblog
 子供の頃、私は踊りが大嫌いだった。私が知っていた踊りとは日本舞踊と盆踊りとフォークダンスだったからだ。準備運動は自分が傷め易い場所を重点的にべきと考えるからラジオ体操も嫌いであり、音楽に合わせて全員が同じ動作をする踊りにも不快感を持っていた。当時は踊る歌手は洋楽系の女性だけであり、男性歌手は直立不動で歌っていたこともこの偏見を助長した。
 この認識を改めさせたのが映画の「ウエストサイド物語(1961)」だった。その驚きは強烈だった。「踊りとはこんなに格好良いのか!」と仰天した。しかし時既に遅し。音楽に合わせて踊ることが全く身に付いていなかったから、踊ろうとしてもまるでタコ踊りのような不細工な動作になってしまう。私は各種楽器やスポーツを割と器用にこなせるほうなのだが踊ることだけは諦めざるを得なかった。
 「ウエストサイド物語」の大ヒットによって、ブロードウェーで公開されていたミュージカルが続々映画化された。「マイ・フェア・レディ(64)」や「サウンド・オブ・ミュージュック(65)」などはアカデミー作品賞を受賞し今も古典的名作として高く評価されている。
 今年の体力調査で女子の体力が2008年の調査開始以来最高になったと11日に発表された。以前から体力低下が問題にされていただけにこれは画期的な出来事だ。ダンスを体育に採り入れている学校での伸びが著しいそうだ。
 ダンスに偏見を持ったばかりに踊れない男になってしまった私からすれば羨ましい限りだ。女子だけではなく、相変わらず体力低下が続く男子も積極的に取り組むべきだろう。ダンスは全身スポーツだ。50m走や投擲などより遥かに有効だろう。競争が中心になり勝ちなスポーツとは違ってダンスの基本は協調だ。スポーツ嫌いな人でもダンスなら楽しく体を動かせる。
 私のような古い世代とは違って現代の男子は踊りに偏見を持っていない。歌手は男性であれ女性であれ、踊れて当たり前だ。踊れない歌手など化石かシーラカンスのようなものだ。女子だけではなく男子も格好良く踊ることに憧れを持っている。
 脳も筋肉も使うことによって発達する。子供の内に基礎体力を育まなければその弊害は一生付き纏う。幼い時の放射線や薬物などの有害物の受容ばかりを騒ぐのではなく、基礎体力や基礎知力の育成にもっと神経質であるべきだろう。
 ダンス教育には問題点もある。それは優劣の差が如実に現れることだ。スピードやキレを練習によって克服することはかなり難しい。しかしこのことは複数のコースを設けることによって解決できるだろう。最低限、激しいダンスと優雅なダンスの2つのコースから選べるようにすれば問題はかなり軽減されるだろう。

寛容

2015-12-15 09:50:26 | Weblog
 フランス革命の理念は「自由・平等・博愛」だが、この博愛という言葉がよく分からない。広辞苑に拠れば「ひろく平等に愛する」とのことだがピンと来ない。多分アガペーに近い概念だろう。
 歴史的事実は変えられないがフランス革命のスローガンは誤っていたのではないだろうか。むしろ現代フランスの理念が「自由と寛容」と言われているように、「自由・平等・寛容」のほうが良かったのではないだろうか。
 自由と平等は整合しない。自由になれば不平等になるし、平等を強いれば不自由になる。この2つは対立する概念だ。この2つを両立させるためには第三の概念が必要であり、それは「博愛」ではなく「寛容」だろう。必然的に対立する自由と平等を調和させるのが、お互いの違いと多様性を認め合う寛容だ。フランス人は賢明であり、歴史に残る「自由・平等・博愛」よりも「寛容」のほうが重要であることに気付いたからこそ「寛容」が国是とされているのではないだろうか。
 翻って日本を見れば「不寛容」こそ現代のキーワードだろう。日本ほど「させない権利」が横行している国などあるまい。マスコミの放送禁止用語、公園での禁止条項、公認キャラクターの否定、これらは一部の人が文句を言うことによって禁じられている。多数決の手続きさえ踏まえず言った者勝ちだ。新聞が軽減税率の対象にされたのはそうしないと文句を言うからだろう。こんなことになるのは寛容な人々が不寛容な人を許容するからであって、言わば悪貨が良貨を駆逐している状態だ。
 言うまでもないことだが「権利」は明治時代に作られた翻訳語だ。これが同時代に作られた「自由」と混同されて世界でも類を見ない奇妙な術語になっているように思える。権利の語源はrightであり、rightには「正義」という意味がある。しかし日本語の「権利」には「正義」というニュアンスが全く無い。小学生の時、私は「(掃除を)サボる権利がある筈だ」という屁理屈を使って担任の教師を困らせたことがあるが、同様に「犯す権利」や「殺す権利」も一理ありそうにも思える。しかし欧米人にこんなことを言えば忽ち一蹴される。「それはraight(正義)ではない」と。権利を歴史的に考えれば、権力者が「正義」と認めざるを得ないほど正当な要求を意味し、正義を欠いた権利などあり得ない。権利と自由が混同されている。
 権利意識の暴走を招いたのは決して権利偏重の日本国憲法だけが悪い訳ではなく、「権利」という言葉から「正義」という意味を取り除いて誤用し続けていることに根本的な原因があるのではないだろうか。寛容と正義こそ現代日本人が忘れている重要な理念だろう。