俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

同性愛者

2015-12-08 10:37:00 | Weblog
 フロイトは「生殖に結び付かない性」を倒錯と定義したが、私は性欲は目的論から解放されるべきだと考える。食欲は必ずしも栄養補給を目的としない。カロリーゼロのコンニャクを食べても構わないように、本能が壊れた動物である人類の性欲は自由だ。従って性的マイノリティの権利は守られるべきだ。
 しばしば誤解されるが少数者は必ずしも異常者ではない。正常な少数者もいれば、それどころか中世の西洋の魔女狩りのように少数者のみが正常者であり多数者こそ異常であるということもあり得る。
 性対象の異常として同性愛とロリコンが圧倒的に多い。数の多さだけを見ればロリコンは全体でも多数者であるかも知れない。私のような老人にとって15歳の少女は「ションベン臭いガキ(放送禁止用語)」に過ぎないが、20歳前後の男性であれば性的魅力を感じる人も少なくなかろう。しかしロリコンは市民権を得ていない。それどころか犯罪的とさえ見られている。
 かつてロリコンは市民権を得ていた。1990年頃まで「プチトマト」などの少女ヌード写真集が普通の書店で堂々と売られていた。当時は猥褻とは大人の性器のことであり、陰毛も生え揃っていない少女の性器は猥褻とはされていなかった。だから殆んどの写真で「ワレメ」までしっかりと写っていた。平成11年(1999年)に「児童ポルノ禁止法」が施行されるまでは少女の全裸写真集が流通していた。
 少女の全裸写真が禁じられたのは欧米の圧力に負うところが大きい。成人のポルノが許されているアメリカでも児童ポルノは児童虐待と考えられていた。国内では少女に対する凌辱事件が問題にされた。
 少女との性交はたとえ合意に基づいていても強姦罪が成立する。性意識が未熟なために、お菓子やアニメに釣られるということもあり得るからだ。従来から禁じられていた少女との性交に加えて児童ポルノが禁じられることによって、ロリコンは完全に市民権を失った。
 現在、同性愛は市民権を拡張しつつある。それどころか「同性愛は異常」という発言を吊し上げるまでに増長している。ホモによる痴漢被害の経験のある(「異常者(2)」参照)一市民として、私は「驕る勿れ」と警告する。市民権を剥奪されたロリコンの例もある。毛虫や蛆虫を食べることは個人の自由だが、それを他人に強制する権利など無い。図に乗って権利ばかりを主張していれば思わぬシッペ返しを食らって、ロリコンと同様に異常者に位置付けられる恐れさえある。人がいつまでも寛大であるとは限らない。

言葉狩り

2015-12-08 09:52:18 | Weblog
 来年の干支は猿だ。申年(さるどし)の年賀状は毎回「見ザル、聞カザル、言ワザル」の図柄を使っている。勿論これは逆説であって「見聞を広め、勇気を持って発言したい」という意思表示だ。48年間(5回)変わらずこの新年の挨拶を続けているが、昨今の風潮ではこれは差別的表現に該当しそうだ。「メクラ、ツンボ、オシ(いずれも放送禁止用語)」を愚弄していると解釈できるからだ。
 世知辛い世になったとつくづく思う。子供の頃、私はこう教えられた。「戦前は軍隊が自由な言論を封じていたが、戦後は民主主義の時代だから皆が勇気を持って発言せねばならない。」GHQによる占領政策に感化された教師は言論の自由を熱く語ったものだ。
 しかしアメリカ流の言論の自由は実は二枚舌(多分これも放送禁止用語)だった。人種や宗教についての発言は厳しく規制されており、軽率な発言をすれば社会的地位を失いかねない。
 アメリカは移民の国だ。インディアン(これはアメリカでは差別語に当り「ネイティブアメリカン」と呼ぶことが正しい)以外は総て移民だ。メイフラワー号に乗ってピルグリム・ファザーズが移民したのは1620年だ。何と日本の江戸時代のことだ。そんな新参者がヒスパニック系住民の増加を忌々しく思っているし、中東からの難民の受け入れにも難色を示している。まるで「目糞・耳糞が鼻糞を笑う(放送禁止用語)」を地で行くような話だがWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)の本音はガチガチの白人至上主義だ。共和党の大統領候補のトランプ氏の人気が妙に高いのはあの暴言・放言こそWASPの本音でありそれをトランプ氏が代弁しているからだ。
 偽善の民主主義を植え付けられた日本においても本音と建前が乖離する。自由な発言を許さない「道徳的な」人々が言葉狩りを始める。人種や宗教の問題が比較的少ない日本においては些細な差別的表現まで過剰に騒がれる。「ブラインドタッチ」や「片手落ち」や「狂気」などの言葉まで放送禁止用語に指定されている。マスコミが勝手に自粛するだけなら構わないが、放送禁止用語がまるで普遍的基準であるかのように扱われて一般市民の発言まで統制されつつある。
 言論の自由は最早葬られて言葉狩り横行する「物言えば唇寒し秋の空(芭蕉)」の時代へと逆戻りしてしまったように思える。私は民主主義の本質とは異なった意見の共存であり、多数決の乱発や正義の押し付けは最も民主主義に背くことだと考える。日本全体としては寛容な人が増えている中、こんな人々の善意に付け込む不寛容な人々が自分達の偏見を敷衍しようとして吠え続けている。差別反対を隠れ蓑に使った彼らのファッショ的体質を見逃すべきではない。