俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

新聞販売店

2015-12-23 10:36:36 | Weblog
 日本の新聞は宅配によって支えられている。駅やコンビニなどで売られる部数などほんの一部に過ぎない。店頭売りが多いと思えるスポーツ新聞でさえ宅配率が60~80%だ。朝、自宅で新聞が読めるからこそ人々は定期購読をする。ネットの普及によってその有難味は薄れたがこれが便利な仕組みであることに変わりは無い。しかし新聞社別の販売店の存在は全く時代遅れだろう。川上によって川下が支配されるような流通システムは独占禁止法に背くのではないだろうか。
 ある出版社の本しか扱わない書店などあり得ない。どこの出版社の本でも扱ったほうが絶対に有利だからだ。今時メーカーによって扱い品目が制限されているのは新聞販売店ぐらいだろう。
 もしそれぞれの販売店が朝・毎・読・産・日経の5大紙と地元紙を自由に扱えれば宅配の効率が格段に高まる。勿論、淘汰も発生するがそれぞれの販売店の収益性は大きく向上するから、軽減税率のような姑息な手段を使わなくても大幅な値下げさえ可能になる。
 ではなぜそんな合理化が行われないのだろうか。新聞社が妨害をするからだ。既に出来上がっている業界秩序を破壊されたくないからだ。新聞社はテレビ局やラジオ局も押さえているから、そんな合理化があり得ることさえ庶民は気付かない。新聞社が新聞販売の合理化を拒んでいる。その地域では強い地元紙を含めた有力紙が販売店を系列化することによって他紙の拡販を阻止している。この制度が新聞の公正な競争を阻害している。既に販売網が備わっていれば大新聞社でも簡単には参入できない。かつて読売新聞が愛知県で販売網を築こうとした時の中日新聞社の妨害工作は凄まじかった。両社は品質ではなく廉売や景品付き販売によって読者を得ようとする低レベルな競争に終始し漫画のネタにさえなった。先に販売網を押さえた新聞社は他社の参入を徹底的に妨害する。前近代的で不自由な競争だ。大半の道府県で地元紙のシェアが歪に高いのは販売網を支配しているからだろう。
 もし新聞販売が自由化されれば読者は今よりも自由に新聞を選べる。私の住む伊勢のような田舎では産経新聞を読めないがそんな不便も無くなる。沖縄では琉球新報と沖縄タイムスの2紙がほぼ独占しているが、こんなガラパゴス化した新聞は淘汰されて沖縄県民の意識さえ変わるだろう。
 マスメディアの欠陥をマスメディアは批判しない。従って誰も批判しない。批判されない権力は必ず腐敗する。マスメディアが権力者以上に腐敗していることは間違いなかろう。不良品を散々売っておいてその回収も賠償もしないのは新聞社だけだ。何とも気楽な稼業だ。販売店の自由化は腐り切った新聞社の体質を改めさせるための第一歩になるだろう。

多・空くじ

2015-12-23 09:44:47 | Weblog
 昔の日本には頼母子講(たのもしこう)や無尽(むじん)と呼ばれる仕組みがあった。例えば住民10人が毎月1,000円ずつ出し合って順番に誰かが10,000円を得る。これはギャンブルではなく相互扶助だ。お金に困っている人に無利子で貸し付けつつ社会の連帯を図るシステムだ。沖縄には今でも模合(もあい)という制度があり多くの人が参加しているそうだ。
 これを金利で考えればこれがいかに優れた仕組みか分かる。仮に毎月会合をすれば、最初に取得する人は勿論、9番目に取得する人も得をする。9,000円を収めた時点で10,000円を取得できるからだ。たった一時のこととは言え、収めた以上の配当が得られる。しかし10番目だけは流石に何のメリットも無いが、社会貢献と割り切れば良かろう。寄付よりは負担が小さい。
 あるいは後の人ほど受け取り額を多くすることも可能だ。1番目は9,910円、2番目は9,930円とすれば10番目は10,090円受け取れる。救済という意味は薄れるが、訳の分からない金融工学よりもずっと納得できる。
 優れた仕組みがあればそれを活用しようとする人も現れる。不利な「10番目の男」を引き受ける見返りとして寺銭を得るのが胴元の役割だ。仮にそれが1回10円であれば、毎回の配当は9,990円となり、10番目の胴元は10か月目にようやく9,990円を得る。しかし寺銭の累計額が100円あるから90円得することになる。この程度の報酬なら妥当だろう。
 宝くじや富くじはこれとは全然違った仕組みになる。最初からゴッソリ寺銭を抜き、当りも輪番制ではなくランダムにする。つまり誰が得をするのか分からなくすることによって全員が幸運を得られるかのような幻想をバラ撒く。しかし配当率50%未満のギャンブルなどぼったくりバーのようなものだろう。
 宝くじは{買わなきゃ当たらない」と大々的に宣伝して射幸心を煽るが、この理屈は正しいのだろうか。論理的には間違ってはいないが詭弁に近い。同じような発想をする国家元首がいた。北朝鮮の金正日総書記だ。彼は「飛行機に乗らなければ航空機事故に遭わない」と考えて、モスクワまで24日掛けて列車で移動した。たとえ論理的には間違っていなくても行動としては気違いじみている。これは「飛行機に乗れば航空機事故に遭う」と誤謬推理をしたからだろう。同様に宝くじのCМに乗せられて宝くじを買う人の多くは「買えば当たる」と信じている。これは彼らの知的レベルの低さの現れだ。愚かな人を騙すことほど簡単な金儲けは無いが、それは詐欺師の手口であり国がやるべきことではなかろう。