「最後通牒ゲーム」という心理実験がある。被験者Aが金銭の分配を提案して被験者Bがその提案の諾否を決める。例えば1,000円を二人で分配する場合、Aが500円ずつの分配を提案すればBは承諾するから二人共500円を得る。ところがAが自分に900円、Bに100円と提案すればBは大抵拒絶するそうだ。
これは不合理な選択だ。Bが100円の報酬を拒絶すれば共倒れになるからだ。損得だけを考えるならAが1,000円対0という提案をしない限り受諾したほうが得だ。たとえ999円対1円であっても、共倒れで0になるよりは1円のほうが得だ。人がこんな反応をするのは「正義」や「公平」を求める意識が働くからだと言われている。
こんな実験は未だ行われていないが、Aがサイコロを振って決めたらどんな結果になるだろうか。サイコロの目に応じて決めるならたとえ6対1になっても黙って受け入れるのではないだろうか。人は人為に対しては不合理な判断をしても運に対してはそのまま受容するものだ。
自然が原因であれば人はそれをそのまま受け入れる。ところが人為が加わっていれば合理性を逸脱しても「正義」や公平」に拘る。私は決して死刑制度に反対する訳ではないが、遺族側の「極刑を求める」という姿勢に不快感を覚えることがある。もし犯人を殺せば殺された人が蘇るのであれば是非ともそうすべきだが、そんなことは起こらない。これは金銭の損失を取り返そうとする裁判とは根本的に異なる。憎悪に基づく判断はしばしば誤る。
あるいは相対的貧困率の話にも疑問を感じる。私は最貧国の中流であるよりも日本の貧乏人でありたい。間違い無くそのほうが健康で文化的な生活ができる。「平等」を優先しようとするから相対的貧困率などといった訳の分からない理屈を振り回す。
宝くじのような世界一配当率の低いギャンブルが許容されているのは当り外れが運によって決まるからだろう。もし金正恩のような独裁者が当選番号を決めるなら関係者以外は誰も買わないだろう。たとえ不合理であっても運が決めるものであれば許される。もしかしたら卜占で決めたほうが多数決で決めるよりも遺恨を残さないのではないだろうか。小学生の頃はじゃんけんや阿弥陀くじで物事を決めることが多かった。説得力も理解力も乏しかったからこそ運任せを公平と考えたのだろう。下駄を預けて判断を任せることが広く行われているのもこのほうが「怨みっこなし」にできるからではないだろうか。
アラブ人は「インシャラー」という言葉をよく使う。これはインシュ・アラーであり「アラーの神の意のまま」という意味だが、日常語としては「なんとかなるさ」に近い意味を持つ。人は運に対しては従順だ。
これは不合理な選択だ。Bが100円の報酬を拒絶すれば共倒れになるからだ。損得だけを考えるならAが1,000円対0という提案をしない限り受諾したほうが得だ。たとえ999円対1円であっても、共倒れで0になるよりは1円のほうが得だ。人がこんな反応をするのは「正義」や「公平」を求める意識が働くからだと言われている。
こんな実験は未だ行われていないが、Aがサイコロを振って決めたらどんな結果になるだろうか。サイコロの目に応じて決めるならたとえ6対1になっても黙って受け入れるのではないだろうか。人は人為に対しては不合理な判断をしても運に対してはそのまま受容するものだ。
自然が原因であれば人はそれをそのまま受け入れる。ところが人為が加わっていれば合理性を逸脱しても「正義」や公平」に拘る。私は決して死刑制度に反対する訳ではないが、遺族側の「極刑を求める」という姿勢に不快感を覚えることがある。もし犯人を殺せば殺された人が蘇るのであれば是非ともそうすべきだが、そんなことは起こらない。これは金銭の損失を取り返そうとする裁判とは根本的に異なる。憎悪に基づく判断はしばしば誤る。
あるいは相対的貧困率の話にも疑問を感じる。私は最貧国の中流であるよりも日本の貧乏人でありたい。間違い無くそのほうが健康で文化的な生活ができる。「平等」を優先しようとするから相対的貧困率などといった訳の分からない理屈を振り回す。
宝くじのような世界一配当率の低いギャンブルが許容されているのは当り外れが運によって決まるからだろう。もし金正恩のような独裁者が当選番号を決めるなら関係者以外は誰も買わないだろう。たとえ不合理であっても運が決めるものであれば許される。もしかしたら卜占で決めたほうが多数決で決めるよりも遺恨を残さないのではないだろうか。小学生の頃はじゃんけんや阿弥陀くじで物事を決めることが多かった。説得力も理解力も乏しかったからこそ運任せを公平と考えたのだろう。下駄を預けて判断を任せることが広く行われているのもこのほうが「怨みっこなし」にできるからではないだろうか。
アラブ人は「インシャラー」という言葉をよく使う。これはインシュ・アラーであり「アラーの神の意のまま」という意味だが、日常語としては「なんとかなるさ」に近い意味を持つ。人は運に対しては従順だ。