俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

採点

2015-12-25 10:22:41 | Weblog
 新国立競技場はA案に決まった。別にB案を支持したい訳ではないが、これを決める手続きに疑問を感じる。結果は610点対602点だったとのことだがたった一人の意向で覆せるほど小さな差だ。各審査委員の持ち点は140点だったのだから誰かがB案に9点加点あるいはA案から9点減点していれば結果は逆になっていた。
 採点に頼るスポーツの大半は最高点と最低点をカットし、更に個々の審判の採点を公表する。このことによって不正を防いでいる。スポーツ施設の評価をする人々がスポーツにおける採点方法を知らないとは思えない。なぜ最高・最低のカットや7人の審査委員のそれぞれの採点を公表するというスポーツでは当たり前のことを怠るのだろうか。審査委員の個人批判をしたい訳ではないから匿名でも構わない。個々がどんな評価をしたかのほうが項目別の評価よりも重要だろう。歪な評価をして公正な評価を損なった人がいなかったかどうかが検証されるべきだろう。
 昔から体操やフィギュアスケートなどの採点で揉めることは多かった。だからこそ先日の羽生結弦選手の世界最高得点のスコアシートはまるで機械で測定したかのように詳細かつ厳密だった。
 ボクシングも必ずスコアシートが公開され、疑惑の判定を繰り返す審判は追放される。WBCでは更に公開採点制度を採用して4ラウンドごとに途中経過を公表している。
 タイムや距離を競う種目であれば結果は一目瞭然だから余り揉めない。しかし採点においては必ず主観が入り、しかも配点は任意だからしばしば困ったことが起こる。
 5人の面接官が2人を面接して10点法で採点する場合、4人が一方に10点、他方に9点を付けたならこの時点では50対46だ。ところがたった一人が5点対10点と逆に評価すれば合計点は55対56と逆転する。採点を単純に合計すれば極端な採点をする人の意向が反映され易くなる。
 もっと単純に2人の面接官が2人を面接した場合、一方が10対9、もう一方が8対10と評価すれば合計点は18対19になってしまう。単純に合計することはしばしば不公平を生む。決して不正工作が目的ではなくても、自分の意向を通したいと考える人はわざと極端な採点をするものだ。
 スポーツの採点ではこれまでに何度も問題が生じたからこそ様々な工夫が加えられ単純に加算するような原始的な方法は採用されていない。公正な評価をするために工夫に工夫を重ねて築き上げられたスポーツ界独自の優れた仕組みを採り入れようとしないような人々にスポーツ施設の評価を任せて良いものだろうか。

流行

2015-12-25 09:40:16 | Weblog
 周囲の価値観が変わるとすぐにそれに順応する人が少なくない。敗戦後はアメリカ式の民主主義が正しく戦前の日本は悪と決め付けられた。最近は「同性愛は正常」と言わなければならないらしい。では同様にロリコンやスカトロジーも正常と言わなければ性的少数者に対する差別になるのだろうか。こんな、価値観の押し付けにはうんざりする。
 韓国では日帝による植民地支配は絶対悪であり日本による統治について少しでも好意的に評価すれば糾弾される。従軍慰安婦は総て日帝の犠牲になった無垢の少女であり、朝鮮人が仲介したことや売春婦が少なからずいたことなどを認めれば告訴される。
 日本でも韓国でも国民の意思によって言論の自由が破壊されつつある。
 これは「多数決が正しい」という妄想が生んだ社会現象だろう。多数者が正しいのだから少数者は間違っているという無茶苦茶な理屈だ。異端者を許さない宗教裁判のようなものだ。世論こそ絶対であり世論に背く者は糾弾される。
 ミシュランの3つ星は絶対価値でありそれに疑いを挟んではいけないらしい。しかしラーメンやお好み焼きの評価をフランス人に任せて良いとは思えない。日本人が評価すべきことであり、それ以上に自らの評価を重視すべきだろう。
 ファッションであればそれにある程度従わなければ時代遅れと見なされる。それでも時流に流される必要などあるまい。一時期のミニスカートの大ブームは滑稽でさえあった。流行と言うよりもマインドコントロールされた状態に近かった。
 昭和50年代の服は流石に古臭くて着られないが、思想はそうではない。18世紀のカントどころか紀元前のプラトンでさえ全然陳腐化していない。
 多数決によって真理が分かるという迷信は早急に否定されるべきだろう。多数決によって分かるのはあくまで現在の状況であってそれは価値を意味しない。仮にAKB48のほうがサザンオールスターズよりも人気があってもAKBのほうが優れているという意味にはならない。
 比較的自己主張があるのは味覚だろう。甘さ辛さは勿論、香りや食感に対する好みも人それぞれだ。日本人の多くがコリアンダー(パクチー、香菜)を嫌う。これをどう評価すべきかは各自が決めるべきことであって、料理研究家が決めることでも多数決で決めることでもない。思想は味覚以上に根本的なものであり自分が拠って立つ根拠だ。頑固であるべきではないが、時流に流されたり空気を読んでそれに従うべきことでもない。時流に流された人々が多数派となって少数派の口封じをするようであれば言論の自由は失われる。