俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

Windows10

2015-11-20 10:16:12 | Weblog
 不遜にも自力でWindows10にバージョンアップした。私は機械には弱いが科学に疎い訳ではない。時々訳の分からない単語があったが、機械の指示に素直に従っていれば1時間半ほどで完了した。
 まだ使い慣れていないので時々焦るが、最初に驚いたのは「ホーム」が無いことだ。急遽「お気に入り」に自分のホームを登録した。
 印刷については却って不便になったと思う。使い方を理解していないせいかも知れないが、以前であれば印刷できたページが印刷できなくなったし、倍率は125%が無くなって一挙に150%に飛んでしまう。空白設定も不便になった。現在のページを印刷しようとしても違うページが印刷されることが時々あり、極力ページ指定を使うようにしている。
 起動にも時間が掛かるし起動後しばらくは反応が鈍い。以前は割と頻繁に電源を切っていたがWindows10にしてからは点けっ放しにすることが多くなった。
 WindowsXPや8.1では困った時には右クリックに頼っていた。右クリックをすれば何かが表示されて大抵の場合それによって解決していたが、10ではそんな手が使えなくなった。私にとってはXPや8.1のほうが使い勝手が良かった。
 学校でパソコンの基礎を教わった世代とは違って職場で見様見真似で使い始めた私達の世代は応用力が無い。知っている機能に頼るばかりだ。私が大学生の頃、研究所にコンピュータがあった。ピアノほどの大きさだったが今の電卓程度の機能しか無かった。そんな古代人は皆、我流でパソコンの使い方を覚えた。学校でWindowsについて教わった世代とはレベルが違う。
 最悪は「Windowsの準備をしています コンピュータの電源を切らないでください」という表示だ。いつまで待っていても待たされ続けるからだ。こんなことはXPなどでもあったがせいぜい数分で終わった。10分以上待たされればうんざりして電源を切ってしまう。
 今のところWindows10にバージョンアップしたメリットは何一つ無い。セキュリティ機能が向上したとでも思わなければ全く無意味と思えるバージョンアップだった。

次善

2015-11-20 09:42:28 | Weblog
 私は資本主義を合理的な経済システムとは思わないが共産主義よりはマシだと考える。私は多数決が大嫌いだがそれに代わる仕組みが見つからないから大人しく従っている。このようにベストとは思えない制度を支持せざるを得ないことは少なくない。だから安易に賛否を問うべきではないと考える。
 ツタヤ図書館であれ公営図書館であれ、それぞれの賛否を問えばどちらも否決されるだろう。図書館不要論があり彼らがどちらにも反対するからだ。私は図書館を不要とは考えないが、図書館の利用者は一部の市民に限られており、利用しない人には税金の無駄遣いと思えるだろう。
 山口県周南市でツタヤ図書館の賛否を問う住民投票が準備されている。もし愛知県小牧市と同じように単純に賛否を問えばきっと失敗する。反対票が56%を占めて否決になった小牧市の市長は「反対理由が金額か民間との連携かデザインか判断できない」と次の一手を打つことができずに困り果てている。賛否ではなく「ツタヤか公営か」という選択肢にするなどの工夫をしなければ同じ失敗をすることになるだろう。
 辺野古への米軍基地の移設に反対する人は少なくない。しかし普天間基地の恒久化の賛否を問えば更に多くの人が反対する。代替案が無いまま反対論だけが独り歩きをしている。具体策を持たないまま「最低でも県外」と主張した自称「愚かな総理」が招いた惨状だ。
 私は旧社会党が大嫌いだった。代替案を持たずに反対をしていたからだ。ところが自・社・さきがけ連立政権になると手の平を返して安保維持・自衛隊合憲と言い出した。それまでの主張が所詮、反対のための反対に過ぎなかったことが白日の元に晒された。この時点で社会党は滅んだ。
 私が自ら俗物と名乗るのは、理想は現実的でなければならないと考えるからだ。しかし殆んどの人は理想は非現実的でも構わないと考える。彼らの理想は対立を生む。キリスト教の理想とイスラム教の理想は合致しないし、ウイグル族と中国共産党の主張は食い違う。現実的な落としどころが必要だ。
 貧困の無い社会が理想であっても一足跳びでそれを実現しようとすれば単に相対的貧困の無い平等社会、つまり皆が等しく貧しい社会になってしまう。理想は理想として残してそれを目標としての改善が図られるべきだろう。
 次善策は中途半端として両極から攻撃され易い。しかし理屈として両極のほうが正しくてもどちらかの極が選ばれれば社会が二分されて対立を招く。様々な価値観の存在を許容できる次善策が私にとっての理想だ。

主役

2015-11-19 10:24:44 | Weblog
 自分にとっては常に自分が主役だ。しかし社会においてはそうではない。多くの場合、脇役に甘んじなければならない。このことに納得しない人がいる。主観と客観が一致しない時、2つの対応策がある。主観を客観に合わせることと、客観を主観に会わさせようとすることだ。前者は正常な対応だが後者であれば様々な無理が生じる。
 見栄を張ることによってそれは幾らか満たされる。自分を実際以上に重要な人物に見せ掛けてそれによって生じた誤った評価を自分で信じる。主役であると他人に信じさせてそれを自分でも信じて満足する。
 悪いことをするのも1つの方法だ。周囲を不安にさせたり心配させたりすることによって存在をアピールする。男性なら大抵の人が小学生の時に、好きな女の子に意地悪をした経験があるだろう。これは無関心よりも嫌われるほうが存在感を示せるからだ。多くの不良少年が「学校に居場所が無かった」と言うが、これは学校では存在感を示せなかったという意味だろう。
 ツィッターなども自己顕示の場として利用される。犯罪に近い行為を自撮りして投稿する。注目されることによって主役になった気分を味わう。子供に煙草を喫わせてその動画を投稿する馬鹿な親もいた。
 私はよく知らないが最近は「かまってちゃん」と呼ばれる人もいるそうだ。周囲が自分に関心を持ち続けなければ我慢できない人らしい。
 これらは発達障害の一種だろう。乳幼児は世界を自分対その他として知覚する。快いものは良く不快なものは悪い。その内、自分の外の世界が自分の意思とは無関係に動くことに気付く。それを認めようとせずに自分の意のままにしようとする人がいる。願望と事実が乖離しても事実よりも願望を優先しようとするから狂った行動を選択することになる。朝日新聞は事実よりも願望を優先しようとしたからこそ「従軍慰安婦の強制連行」というマスコミ史に残る大誤報をしてしまった。いつからか知らないが、朝日新聞は「従軍慰安婦」という言葉を単に「慰安婦」という表現に変えていたらしい。これはその時点で既に記事を疑い始めていたからだろう。願望に引き摺られていなければもっと早く事実に基づく報道に修正できていただろう。
 自分にとって自分が主役であるのは当然だ。しかし他人にまでそれを押し付ける理由は無い。自分にとって自分が主役であることが未来永劫変わらないように、他人がそれぞれ自分を主役と思うことも他人の勝手だ。

科学

2015-11-19 09:46:54 | Weblog
 科学であるためには再現が可能でなければならない。リンゴが落ちるかどうかについては議論によってではなく実験によって検証される。しかしこんなことが可能なのは単純な事象を対象とする場合に限られる。地球環境であれ地震であれ食物や薬の有効性・有害性であれ、複雑過ぎて実験による再現は不可能だ。再現不可能なことを科学にするために様々な工夫が凝らされたが殆んどが似非科学になってしまった。
 因果が曖昧な場合、統計に基づく相関関係が利用される。しかし統計的事実を羅列しても科学にはなれない。「リンゴは90%落ちる」ではなく「リンゴは100%落ちる」が科学であって、落ちない10%を解明する必要が生じる。因果を解明しないままでの90%有効な医療は科学とは呼べない。
 科学であるためには客観的かつ再現可能でなければならない。こんな前提が却って偽科学に繋がる。パソコンばかりを見て患者を診ようとしない医師もいるらしいが、検査数値だけに頼ることを科学的だと勘違いしている。医師が注意すべきことは検査数値には現れない患者の状態だ。患者の顔色を気にしない医師でも、もし顔色判定機によって顔色が数値化されるならその数値を気にするようになるだろう。全く本末転倒だ。
 ネットでも話題になっている過剰釣り銭に出会った。91円の商品を買って101円出したところ、店員が妙にモタモタしていた。レジの表示を見れば釣り銭910円となっていた。101円を間違えて1,001円と入力したから変な釣り銭が表示された。私は「お釣りは10円」と言った。機械に頼るからミスに気付かない。こんな店員が9万円以上のお釣りを渡すような馬鹿な仕事をするのだろう。
 たとえ機械が正確であっても入力を間違えれば誤った答えが出る。科学には普遍妥当性があっても偽科学は嘘まみれだ。数値化できないことを無視するようでは医師として失格だ。
 無理矢理科学を装うことなど不必要だ。実験によって検証できない医療は元々科学たり得ない。基礎医学は科学たり得るが臨床医学は科学ではない。科学では対応できない複雑な事象に対しては、科学に還元しようとせずに「ありのままに」捕えることのほうがむしろ科学的な姿勢だ。
 根本的な間違いは、数値化すれば客観的かつ科学的になると思い込んでいることだ。科学の本質は正確な因果性の把握であって数値化することではない。これが科学に対する大きな誤解だ。
 実は科学と哲学は相性が良い。それは科学が元々は「自然哲学」というジャンルだったからだ。近代科学の創始者とも言われるニュートンはカント以前の自然哲学者だ。カント哲学によって理性の限界が示されたが、ニュートンは総てが単純な法則に集約される、つまり神の定めたルールに従うと信じていた。哲学において、分からないことを分からないと認めることが重要であるように、科学や医学においても数値化できない情報を見逃さないことこそ重要だ。

戦争

2015-11-17 10:34:06 | Weblog
 暴力は良くないと誰もが考える。しかし暴力を絶対悪と位置付けることには同意できない。攻撃された時の最善策は逃げることだろうが、反撃する権利も法的に認められている。
 「戦争反対」と主張する人のイメージは「暴力反対」と重なる。戦争は良くない。できれば回避したい。しかし戦争は核兵器とは違って絶対悪ではない。暴力が時には必要なように反撃する権利も国際法で認められている。反撃しなければ一方的に蹂躙されてしまう。侵略の方法は決して正々堂々とと攻めるものとは限らない。ゲリラ兵の上陸のほうがむしろ現実的だ。メキシコの麻薬組織の武装グループは軍隊でしか対応できないほど強力らしいが、北朝鮮や中国のゲリラ兵の武力はそれ以上であり、警察の手に負えない。
 健全な市民は平和を願う。日米戦争直前のアメリカ市民もそうだった。最強の軍事力を誇るアメリカは武力を背景にした世界秩序、つまりアメリカによる世界支配を目論んでいた。しかし国民は必ずしもそれを望んでいなかった。だからこそ窮鼠に猫を噛ませる必要があった。在米日本人の権利を剥奪し、日本に対する理不尽な経済封鎖を行って日本に戦争を仕掛けさせた。真珠湾攻撃を世界で最も喜んだのはルーズベルト大統領だった。
 日本は大失敗をしたと思う。戦争を仕掛けさせられたことではなく勝てそうにない敵と戦ったからだ。誰でもプロボクサーと素手で喧嘩をしようとは思わない。武器でも持っていない限り勝ち目は無い。戦って負けるよりは戦わずして負けるほうが上策だろう。
 孫子曰く「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり。」所謂「戦わずして勝つ」だ。私はヘソ曲がりなので、戦って負けるよりは戦わずして負けるほうが遥かにマシだと考える。俗っぽい言い方をすれば「金持ち喧嘩せず」だ。
 戦犯という言葉が日常語として使われている。しかしこれは本来の、捕虜虐待などの戦争犯罪を意味せず、敗因を作った人に対して使われる。アメリカは東京裁判で戦前・戦中の日本の指導者を「平和に対する罪」や「人道に対する罪」といった法的根拠を欠く事後法によって裁いた。これは茶番劇だ。東京裁判の目的はアメリカ兵を殺したジャップに対する報復に過ぎない。こんなデタラメな裁判だからこそ戦犯という言葉の意味まで混乱してしまった。戦ったことや卑劣な戦いをしたことに対する問責ではなく負ける原因を作った者が戦犯と呼ばれている。A級戦犯は戦争を起こしたから悪いのではなく、負けると分かっている戦争をして負けるべくして負けたから戦犯なのだと日本人は勝手に曲解した。戦犯という言葉の意味がすっかり変わってしまったのは東京裁判が全く理不尽な裁判だったからに他ならない。

偏見

2015-11-17 09:49:24 | Weblog
 先日WHOが「加工肉を毎日50g食べると大腸癌に罹るリスクが18%高まる」と発表して以来、ハム・ソーセージ類の売上が2割ほど落ち込んでいるそうだ。食品に関する与太話は毎月のように公表される中でこの発表の影響はなぜこれほど大きくなったのだろうか。それは日本人の偏見と合致したからだろう。
 明治維新まで日本では獣肉食の文化がほぼ途絶えていた。動物性蛋白質は鳥と魚であり、明治の初期には「牛肉を食べれば牛になる」という噂まで流れた。ちゃんこ鍋の主要食材が鶏と魚と野菜であるのは伝統文化に基づいており決して「四つ足」を避けるという縁起担ぎが原因ではない。僧侶の多くが肉食妻帯を禁じられたのは肉食と肉欲が共に不道徳と考えられたからだろう。
 加工肉の歴史は肉食よりも浅く、ハム・ソーセージ類が定着したのは戦後でありしかも当初は主に魚肉ソーセージだった。加工肉には必ず食品添加物が使われており「買ってはいけない」などの与太本がその危険性を過剰に騒ぎ立てていた。
 こんな歴史的背景があるから「加工肉は悪い」という主張は日本人に潜んでいた偏見に見事にアピールした。だからこそ影響が大きかった。日本よりも遥かに多く加工肉を摂取する欧米ではこんな偏見とは無縁だったからこそこれほどの影響を及ぼさなかったのだろう。
 偏見は普段は隠れていることが多い。ところが偏見は情動を増幅する。関東大震災における朝鮮人虐殺やアメリカで頻発する白人警官による黒人に対する暴行などは明らかに偏見が露呈した暴力だ。
 偏見は反応を過剰にするだけではなく不合理を黙認する要因にもなる。公明党は軽減税率対象商品として一貫して「酒類を除く飲食料品」と主張している。この主張に疑問を感じないのは我々に「酒は悪い」という偏見があるからだ。確かに酒類は必需品ではない。しかし酒類には多額の酒税が掛けられている。酒税に消費税が掛けられれば二重課税になる。税金に税金を掛けるとはとんでもない話だ。これこそ究極の悪税だ。酒類については酒税が掛かっているのだから消費税免税にしても良いぐらいだ。こんな当たり前のことに気付かないのは「酒は悪い」という偏見を持っているからだ。「酒は悪い」という思い込みがあるからこそ酒税に消費税を掛けるという悪税まで黙認してしまう。
 公園の遊具の事故を過剰に騒ぎ、より重大な自転車事故を余り報じないこと、エスカレータ事故なら騒ぎ立てるがそれよりも桁違いに多い階段事故は無視すること、これらは偏見が生んだ歪な報道だろう。
 私はエスカレータでは歩く人と止まる人の共存が図られるべきだと考える。それはエスカレータ上を歩けば階段を走るのとほぼ同じスピードが得られしかも階段を走るよりも遥かに安全だからだ。マスコミは通勤時間帯での駅の階段がどれほど危険であるかを全く理解していない。

塀の内外

2015-11-15 10:16:29 | Weblog
 巨大な防潮堤は役に立つのだろうか。東日本大震災の折り、世界最大級の防潮堤が決壊し、防潮堤を過信して避難をしなかった人や防潮堤に遮られて海の異変に気付かなかった人が大勢水死した。千年に一度の巨大津波に備える必要などあるのだろうか。防ぐことより逃げるほうが有効だろう。
 馬鹿げた実例がある。1993年に北海道の奥尻島を襲った津波によって住民4,700人中200人以上が亡くなった。国は高さ11mの防潮堤で島を取り囲んだ。しかし防潮堤によって景観も漁場も失った島からは住民の流出が相次いで今の住民数は3,000人にも満たないそうだ。牢獄のような塀の中で暮らすよりは自然や資源に恵まれた暮らしのほうがずっと好ましい。
 牢獄や防潮堤に限らず、巨大な塀は内外を分断する。中世西洋の都市国家は城壁国家だったし、世界最大の建造物である万里の長城は元々、漢族の地と蛮族の地の境界だった。境界の外であれば匈奴やモンゴル族などが何をしようと中国歴代王朝は関与しなかった。
 今、万里の長城は中国の国内にある。これは歴史的には奇妙なことだ。漢族による支配はこれまで万里の長城の外には及ばなかった。万里の長城が古代以来の中国人が定めた国境だ。万里の長城を越えて南北を支配したのは元や清のように、北方民族が漢族を支配した時だけだった。清朝の時代、清の領土は万里の長城を跨いだが、満洲は満州族(女真族)の領土であり、漢族の勝手な立ち入りは許されなかった。
 こう考えれば辛亥革命で清朝が滅んだ時に、ラストエンペラーの愛新覚羅溥儀が満洲国王に収まることが当然とも思えるが、日中ソにモンゴルが絡んだ領土争いは奇々怪々過ぎて正直な話、素人には訳が分からない。日本では余り報じられないが、現在も内モンゴルではウィグルやチベットと同様、独立運動が続いている。
 先日、習近平国家主席は「南シナ海(の島)は昔から中国の領土だ」と語ったが、歴史に基づくなら現在の内モンゴル自治区が中国の領土ではなかったことこそ明白だ。万里の長城という「動かぬ証拠」がある。

自転車事故

2015-11-15 09:40:06 | Weblog
 戦後最高のアスリートはイチロー選手だろう。パワーは乏しいがスピードや反射神経などの総合力で多分№1だろう。そのイチロー選手が高校生の時に自転車通学の途上で自動車との接触事故に遭い、その怪我が原因で投手を諦めて野手に転向したそうだ。最高のアスリートであるイチロー選手でさえ自転車事故を回避できなかったのだから我々凡人に回避できる訳が無い。自転車は危険な移動手段だ。
 天才スイマーの萩野公介選手が自転車事故で骨折して8月の世界水泳を欠場した。水泳の万能選手の萩野選手が陸に上がった河童だったとは思えない。多分陸上でも標準以上の運動能力を備えているだろう。萩野選手やイチロー選手に限らず、多くの一流選手が自転車で怪我をしている。
 たまに前輪の買い物籠に荷物を積むが缶コーヒーなどの重い荷物であれば随分運転しにくくなる。動かない荷物でさえ邪魔なのにここに動く子供を乗せるなどとんでもないことだ。増してや非力な女の細腕だ。多分事故率はかなり高いだろう。
 子供の自転車も危険だ。運動能力が低いだけではなく一般常識が欠けているし、何よりも道路交通法を知らない。自転車に乗る子供には道路交通法の講習を義務付けるべきだろう。
 公園などで子供が事故に遭うとマスコミは騒ぎ立てる。こんな事故よりも自転車事故のほうが遥かに多い。事故が多過ぎるからニュースにならないだけだ。これはマスコミの悪癖だ。新奇な事件ばかり騒ぐから本当に危険なことが知らされない。もういい加減に、犬が人を噛んでも騒がずに人が犬を噛んだら騒ぐような猟奇的な報道姿勢を改めるべきだろう。
 昨年の自転車事故は警察が把握しているだけで11万件あり死者は542人だったそうだ。事故の当事者の年齢層は20歳未満が30.6%、65歳以上が18.5%と子供と老人が極端に多く、この2つの年齢層が半分を占める。これは子供と老人が自転車をしばしば利用するからではなく、運動能力の低さが原因だろう。
 大袈裟な言い方かも知れないが、日常生活で最も命の危険を感じるのは自転車に乗る時だ。道路交通法を守っていてもそれを守らない自動車に遭遇すれば一溜りも無い。裸で戦場にいるようなものだ。電車を利用できない田舎者は不幸だ。都会人は優遇されている。都会には立派な橋があるのに田舎には吊り橋しか無いというぐらいの格差だ。
 認知症の老人による自動車事故が頻発しているが免許証を返納できるのは都会に住む老人だけだろう。電車という文明の利器を使えず今更危険な自転車にも乗れなければ自動車に頼らざるを得ない。

MRJ

2015-11-13 10:32:17 | Weblog
 空の旅は陸や海とは大きく異なる。陸や海でのトラブルであればそこに留まることができる。エンジンが動かなくなってもその場で待っていれば何とかなる。しかし空には留まれないから落下する。だからこそ航空機の安全性は電車・自動車や船よりも重視される。それだけに国産ジェット旅客機MRJが開発されたことは朗報だ。
 日本製品は故障が少ない。日本の自動車が世界中で支持されているのはこのことが大きな要因だろう。かつては家電なども国際競争力があったが中国製や韓国製などに駆逐されつつある。これは自動車ほどには安全性が重視されないからだろう。現在の日本製品の輸出は自動車に頼り切っている。これは良くない状況だ。
 一時期「選択と集中」という言葉がビジネスのキーワードとして持て囃されたがこれは危険な戦略だ。大博打のようなものであって、当たれば大きいが外れれば悲惨だ。その典型例がシャープとサムスンであり、主力商品と心中することにもなりかねない。その逆が百貨店だ。斜陽産業と言われて久しいのに滅びないのは「百貨」を扱っているからだ。呉服や進物から婦人雑貨、婦人服、食品と主力商品を変えているから生き残っている。
 自動車産業は裾野が広いと言われている。単なる移動手段ではなくエアコンやオーディオやエアバッグなどが装備されているから部品数は約3万点と言われている。MRJは桁が違う。約100万点だそうだ。膨大な数の下請け企業が参加することになる。現時点ではエンジンなど約7割を輸入に頼っているらしいが、今後徐々に国産化を進めればGDPへの貢献は更に大きくなる。このことは単に国益に留まらない。航空機の安全性が高まることは世界中の人々にとって好ましいことだ。
 航空機開発で日本が遅れを取ったのはGHQによって航空機の研究が禁止されたからだ。世界の最先端の技術を持っていたからこそGHQが禁止した。この一事を見てもGHQの狙いが日本の弱体化であったことは明らかだ。GHQによってすっかり洗脳されたマスコミが指摘しないことだが、私は航空機の禁止も農地改革も憲法も、日本を劣化させてアメリカによる世界支配を推進するために強制した悪政だと思っている。サンフランシスコ平和条約によってようやく日本はGHQによる支配から免れた。
 この禁止期間は丁度、航空機がプロペラ機からジェット機へと移行する時期に当たっており日本は技術革新に乗り遅れてしまった。そのために折角、技術がありながら外国企業の下請けという立場に甘んじざるを得なかった。とは言え、下請けを務めることによって最先端技術に追い付けたとも言えよう。
 随分寄り道をしたがまだこれからの巻き返しは可能だろう。航空機産業以上の巨大産業は今のところ見当たらないだけに、持続的な経済成長を図るためにはここが勝負所だろう。これまで自動車などで培った安全・低燃費という日本製品の長所が発揮される絶好のチャンスだろう。

医療過信

2015-11-13 09:43:51 | Weblog
 心理学用語に「ハロー効果」という言葉がある。「後光効果」とも言う。これはある分野で顕著な功績があった人を、他の分野でも過大評価することだ。ノーベル賞の受賞者を人格者であるかのように思い込むことなどがその例だ。有効な医療があるからこそ偽医療が蔓延る。
 動物には自然治癒力が備わっているから多少の不具合なら自力で治す。これが動物と機械の根本的な違いだ。医療はその手伝いをすべきだ。ところが自然治癒力の妨害をする偽医療がある。不快感を誤魔化すことによって却って病気を悪化させている。その典型例が解熱剤と下痢止めだ。
 風邪をひけば発熱する。この発熱は病状ではなく、熱に弱いウイルスに対する攻撃だ。解熱剤を飲めば体温が下がって楽になるがウイルスも元気になる。その結果、風邪からの回復が遅れる。風邪を治す薬などこの世に無い。安静にするのが一番だ。
 胃腸に有害物が入れば下痢をする。これは有害物を一刻も早く対外に排出するために必要な反応だ。こんな時に下痢止めを飲めば有害物が体内に留まる。和歌山の砒素カレー事件でも、堺市のО-157集団食中毒事件でも、下痢止めを処方された患者の死亡率が有意に高かったそうだ。自然治癒力の妨害をするからそんなことになる。
 解熱剤や下痢止めの例のように、不快感の緩和は多くの場合有害だ。薬効と思うのはただの錯覚だ。対症療法薬で不快感を誤魔化している内に自然治癒力が働いて治ることを薬効と勘違いしている。こんな錯覚に付け込んで金儲けをしようとする医療など詐欺のようなものだ。
 機械の故障は修理しなければ治らない。しかし動物には自然治癒力が備わっているから多少の不具合があっても勝手に治る。治療をしたから治る訳ではない。機械文明に馴染んでしまったから修理(治療)をしなければ治らないと思い込んでいる。
 医療の総てが有害な訳ではない。有益な医療は3つある。①緊急時対応②病原体対応③栄養補給。この3つ以外は殆んどが有害だ。漫画の「仁」でも描かれたが、ペニシリンは画期的な細菌性感染症の治療薬だった。そのために人々は医療を過信してしまった。この3つ以外の医療は祈祷と同レベルのオカルトに過ぎない。有効な医療があるからと言って医療全般を信じるべきではない。それは親切そうな詐欺師に全財産を預けるような愚行だ。
 医療に可能なことと不可能なことを識別する必要がある。前述の3つ以外は今のところ殆んどが無効だ。医療よりも手洗いやうがいのほうが有効だ。最近、ノロウイルスの予防に手洗いとうがいが奨励されているが、裏を返せばそれ以上にマシな手立てが無いということだろう。医療を過信すべきではない。