俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

植物

2015-11-11 10:43:28 | Weblog
 フレミングの最初の発見は、鼻水が多くの細菌を殺すということだった。彼は鼻水の中の殺菌成分によって感染症を克服できると考えて熱心に研究を続けたがこの研究は全く役に立たなかった。鼻水の成分によって除去できるのは人にとっては無害な細菌ばかりだったからだ。
 しかしここで一度立ち止まって、人にとって無害な細菌という意味を考える必要がある。それは本当に無害なのではなく、人類に備わっている免疫力によって克服できる細菌と捕えるべきではないだろうか。人に備わっている体液によって駆除できるから無害なだけであり、本来は有害であるものが大半だろう。
 現在無害である細菌とは実は最も有害であった細菌ではないだろうか。その細菌を克服するために人類は進化した。より正確に記せば、その細菌に対する免疫力を持たない個体は死滅し、たまたまその免疫力を持つ個体のみが生き残ったということだ。(以下のこの記事では不正確になることを承知の上で擬人的表現を使う。正確に表現しようとすれば余りにも冗漫になってしまうからだ。)医療では多剤耐性菌が問題になっているが、人類は既に多菌耐性を備えている。だからこそ免疫力が低下した状態、例えば後天性免疫不全症候群(エイズ)を患った患者はエイズそのものではなく、通常であれば発症しないカリニ肺炎やカポジ肉腫といった奇病によって命を失う。
 多くの薬が植物や菌類から発見された。ペニシリンは青カビから、アスピリンは柳の樹皮に含まれるサリシンから作られた。なぜ自然界に薬の原料があるのか?細菌から身を守るためだろう。細菌によって滅ぼされないために植物が獲得した殺菌力が人類にとっての薬として役立つ。
 植物にとっての敵は細菌だけではない。草食動物こそ最大の敵だ。食べられないために植物は様々な進化をした。例えば奈良公園のイラクサは独自の進化を遂げて毒性のあるトゲを持ち、このことによって鹿に食べられることを防いでいる。多くの植物は虫に食われると自然農薬を合成してそれ以上食べられないように防御をする。だから虫食い状態の無農薬野菜を有難がるべきではなかろう。たとえ人工農薬がゼロでも内部が自然農薬まみれになっているかも知れない。
 果実の役割は全く違う。果実は動物に食べられるために作られる。勿論、植物が利他的である訳ではない。実を種子ごと食べた動物が他の場所で排泄することによる拡散を目論んでいる。だから種子は容易に消化されないように固い殻を被っている。
 種子は植物の生命の源だ。種子から植物が生まれるのだから卵と同様生命のエッセンスが凝縮されている。水さえあれば発芽・成育できるほどの栄養素も含まれている。貴重な種子が消化されては困る。だから様々な防衛策を講じる。クルミのように固い殻を持ったり栗のようにイガを持ったりする。堅牢にして食べても消化されないようにすることが一般的だが、中にはアーモンドやトマトの原種のように毒を持つという進化もある。動物とは違って動いて逃げることができない植物は生き延びるために非常に様々な戦略を採用している。動物の生存戦略は逃げるという最も有効な戦略に特化してしまっているが、それをできない植物の多様な生存戦略から我々は多くのことを学べるだろう。

保守

2015-11-11 09:46:52 | Weblog
 敗戦で価値観が転覆した日本には2種類の保守主義者がいる。戦後民主主義を信奉する人と戦前までの日本文化を懐古する人だ。
 保守的な人の価値基準は単純だ。現在自分が持っている価値観を極端に信頼する。だから自分とは違った意見を間違った意見と考える。保守的な人は頑固だが、戦後民主主義の信奉者と比べれば、懐古的な人のほうが少しだけ融通が利く。それは戦後の価値観によって否定された経験があるからだ。この経験があるから自らの価値観を絶対とは考えない。ベストではなくベターと位置付ける。どうしようもないのはゴチゴチの戦後民主主義者だ。
 保守的な人は議論が下手だ。議論の前に既に結論があるから議論をしても少しも深まらない。そもそも彼らは議論とディベートの区別さえできない。ディベートとは相手を説き伏せることだ。お互いに知恵を出し合って考えを高める議論とは全く別の代物だ。
 ややこしいことに戦後民主主義の鬼っ子が革新を標榜している。確かに敗戦直後であれば「封建的な」戦前の価値観に対して革新的ではあったが、今では学校で習った低レベルな価値観を盲信している幼稚な人々だ。学校で「民主主義が正しい」と教わったから何でも多数決で決めようとする。
 議論が成立しなければ民主主義も成立しない。民主主義とは異なった意見の存在をお互いに認め合った上で妥協をすることによって成立する。ところが相手の意見を初めから否定していれば議論にならない。だからこそすぐに多数決に頼ろうとするが、多数決ほど少数者の意見を封殺する非民主的な手法は無かろう。
 真に革新的な人は自分の意見に対しても革新的だ。だから違った意見を喜んで聞き、今の自分を維持することよりも今よりも優れた自分に成長することを望む。不思議なことだが、世界の5大聖人【釈迦、孔子、ソクラテス、イエス、マホテット(ムハンマド)】は誰一人として著述せず、弟子達による伝聞書のみが継承されている。これらの真に革新的な人々は今の自分以上に優れた自分を常に想定していたからこそ、今の自分の考えを固定化すべきではないと考えたのではないだろうか。映画の巨匠・黒澤明監督は、代表作を尋ねられると必ず「次に撮る作品です」と答えたそうだ。現状に満足しない高い向上心こそ偉人の証しだろう。

良書

2015-11-09 10:19:46 | Weblog
 最も影響を受けたのはドストエフスキーとニーチェとカントだと書きたいところだが、実はもっと私の血肉となった著述家がいる。漫画家の手塚治虫氏だ。文字を殆んど読めない頃から読み続けたから、どれが手塚氏から受け継いだ思想でどれが自分のものかさえ区別できないほどだ。
 最初に愛読したのはやはり「鉄腕アトム」だった。しかしこれはとんでもない重い話だ。決して無条件に科学を賛美する能天気な漫画ではない。最も重要なテーマはロボットの人権だ。心を持ってしまった機械の権利はどうあるべきかという、余りにも時代を先取りし過ぎたテーマだった。こんなテーマは大人でも理解できないし子供に分かる訳が無い。だからこの主題は隠されて、時々ロボットを差別する登場人物、あるいは人間に正面から戦いを挑む「青騎士」の物語などで顕在化するに留めていた。
 手塚氏自らがライフワークと位置付けた「火の鳥」もショッキングな作品だ。中でも第2話の「未来編」は恐ろしい内容だ。死ねない体になった主人公は、核戦争で人類が死滅した後たった一人で30億年間生き続ける。ロボットも人造生命も失敗した末、有機物の元を合成して生命が生まれて進化するのを待ち続けるという長い長い時間を描いた物語だ。余りのスケールに圧倒された。
 仏教についても様々な本を読んで勉強したが、私の仏教理解は多分「ブッダ」に基づく手塚仏教だと思う。漫画でありながらそれほどの深みがある。
 ペンネームに「虫」の字を入れるほどの虫好きの手塚氏は環境破壊にも憤っており、私のエコロジーは多分手塚氏から譲り受けたものだろう。
 手塚氏の全作品を読んだ私はどの作品からも感化された。これほど長期間愛読し続けるとその思想がすっかり自分のものになってしまう。だから気付かぬ内に手塚氏の言葉を復唱しているかも知れない。ある意味でこれは恐ろしいことだ。
 幼少期から晩年に至るまで手塚氏の作品を読み続けられたことは僥倖だったと思う。子供向けの童話とは違って偽善性の欠片も無い良書揃いだ。漫画という軽視され勝ちな媒体でなければ、手塚氏は日本を代表する思想家として評価されていたのではないかとさえ思う。手塚氏の功績は絶大だ。漫画やアニメを文化のレベルにまで高めたことだけではなく、思想家としても偉大であり日本人を最も教化した人ではないだろうか。「ブラック・ジャック」を読んで医学を志した人も少なくないそうだ。

偽因果

2015-11-09 09:41:33 | Weblog
 昨日(8日)朝のNHKのニュース番組で嚥下食を採り上げていた。嚥下食とは、老人などが食べ易いように食材を柔らかく加工した料理だ。見た目は普通の調理品そのままであり、食感はともかく味も再現しているそうだ。これによって老人の食生活が豊かになる。
 ここまでは良かった。ところがとんでもないことを言い出した。ネットを見ながら聞き流していたので正確な数値ではないが大体こんな内容だった。「嚥下食が寿命を伸ばすことも証明されている。3年後の生存率は、点滴なら30%、胃瘻なら40%だが、嚥下食にすれば50%以上になる。」折角の情報が台無しだ。こんな馬鹿な話を根拠にすれば嚥下食が有害物にもなりかねない。
 考えればすぐに分かることだが、健康な人であれば普通の食事をする。軽い嚥下障害があれば嚥下食に頼る。嚥下食も無理な人が胃瘻を使う。胃瘻も無理であれば点滴に頼らざるを得ない。どの人が長生きできるかは、衰弱状況だけで予測できる。衰弱が酷い人ほど不自然な栄養補給に頼らざるを得ないのであって、栄養摂取方法だけで生死が決まる訳ではない。
 こんな間違った因果関係に基づいて説明をすれば、嚥下障害を起こしている人にまで無理強いをして誤嚥性肺炎を起こさせることにもなりかねない。正しい因果は「食べる能力が残っている人は長生きできる」であって「食べさせれば長生きする」ではない。増してや「無理をしてでも食べさせるべきだ」ということにはならない。
 健康に関して人体実験をすることは許されないからどうしても統計データに頼ることになるが、このデータを正しく読み取らねば誤った結論へと導かれる。
 昔こんな報道があった。高度経済成長期には寿命が延びた。平均寿命のグラフがテレビの普及率のグラフと丁度重なることを指摘して評論家が言った。「テレビが正しい健康情報を伝えるから寿命が伸びた。」全くのお笑い種(ぐさ)だ。多分、経済成長のグラフも殆んど同じように重なるだろう。このデータから読み取るべきことは、国民が豊かになったから寿命が伸びテレビの普及率も高まったということだろう。寿命の伸びとテレビの普及率の上昇はどちらも豊かさの結果であってこの二者に因果関係は無い。
 食べる能力が残っていれば極力自力で食べたほうが良いが、能力が損なわれている人にまで無理強いをすれば却って有害だ。因果関係を正しく捕える必要がある。こんな番組を作るNHKのスタッフには因果性の理解が欠けており、こんな番組を見た多くの視聴者が誤った理解をしてしまうだろう。

続・肉

2015-11-07 10:45:34 | Weblog
 10月28日の「肉」という記事でWHOによる「加工肉を1日に50g食べると癌に罹るリスクが18%高まる」という発表を与太話として否定した。5日付けの「一般論」でも書いたとおり、相関と因果とを混同する偽科学が余りにも多い。
 「肉」で使った論理はこうだ。①癌は細胞のコピーミスによる老人病(修正:より正確にはDNAのコピーミスによる細胞の異常化)②長生きすればコピーミスが増えて癌に罹る可能性が高まる③癌と肉食を因果付けることは論理的に無理。
 この記事で私は癌が老人病であることの根拠を提示しなかったので少し古いが「2005年国立がんセンター年齢別がん死亡リスク」より引用する。日本人男性が癌で死亡する確率は26%だ。これを年齢別で見れば、50歳までは0.6%、60歳までは2%、70歳までは7%、80歳までは16%、(100歳+αでようやく26%)となっている。このことから癌は加齢性変異と推定できる。
 私が罹患率よりも死亡率に注目するのは理由があってのことだ。日本では癌の定義がかなり曖昧なために欧米であれば腫瘍と判定されるものまで癌と呼ばれている。だから早期発見・早期治療が成功したしたとされている事例の大半が「がんもどき」に対する空騒ぎだ。患者が本当に癌だったかどうかは分からないが、その一方で癌によって死んだ人は間違いなく癌だったと言える。だからこちらのデータのほうが信頼性が高い。
 「肉」の記事に妙なコメントが付いている。論点は2つ。①肉食しない国が癌にならないのは事実②子供の癌があるから寿命とは無関係。
 この人がなぜこんなに感情的になるのかよく分からないが、指摘されたことを無視すべきではなかろう。
 ①については私は全く疑いを挟んでいない。但し事実であるということだけで因果と決め付けることは余りにも軽率だ。第3の原因があり得るからだ。寿命以外に医療制度や環境や貧富などが真因ともなり得る。
 ②については、例外を過大評価する無理な論法だ。例えば「卵でアレルギーが起こるから毒物に指定しろ」などが類例だ。例外は常に存在し得るからこそ慎重に判断する必要がある。因果性を特定するためにはまず統計的データに基づいて傾向を正確に把握せねばならない。卵を例にするなら「卵は通常毒物ではないがアレルギー体質の人もいる」が正しい判断だろう。国立がんセンターののデータを見る限り、癌と年齢の相関性は肉食の比ではなかろう。
 子供の癌はほとんどが先天性異常で稀に放射線被曝がある。これらは細胞のコピーミスではなくDNAそのものの異常だ。DNAが狂っていれば胎児の時点から癌細胞を持つこともあり得る。しかし子供の癌は稀なものであり、卵アレルギーと同様に例外扱いすべきだろう。癌は老人病と言い切って良かろう。

進歩的文化人

2015-11-07 09:48:48 | Weblog
 子供の頃から「進歩的文化人」と呼ばれる人々が嫌いだった。イデオロギー云々ではなくとにかく胡散臭かった。その胡散臭さの正体が何なのか子供の私には分からなかったが、朝日新聞が昭和20年の9月にGHQによって発行停止処分を受けたことを知って謎が解けたような気がした。彼らはGHQを恐れGHQに迎合する記事しか書けなくなったということだ。この事実を認めずに抑圧したからトラウマが生じて集団的神経症に罹った。彼らは最早存在しないGHQを神のように崇めることによって精神的安定を求めた。
 あるいは奴隷根性の人もいただろう。彼らは命じられたことに唯々諾々として従う。状況が変わればその状況に応じて考えそのものも変える。まるで文章の自動販売機のような人だ。
 憲法を一字一句変えさせまいとするのはそれが神(GHQ)によって与えられた掟だからだ。モーゼの「十戒」が神聖不可侵であるように日本国憲法を不磨の大典と位置付ける。憲法を変えようとする不届き者は「背徳者」だ。彼らは理性ではなく信仰に基づいて憲法を守ろうとしているのだから、彼らとの議論はまるで神学論争のようになってしまう。
 広島の原爆記念碑に刻まれた奇妙な碑文「過ちは繰り返しませぬ」について中国が親切で分かり易い解説をしてくれた。2日の国連総会での核兵器廃絶決議において中国代表は「(原爆は)日本が始めた侵略戦争の必然的な帰結だ」と主張して決議にまで反対した。つまり過ちを犯したのは大日本帝国でありアメリカに落ち度は無いということだ。中国人やアメリカ人がそう考えるのは彼らの勝手だが、被災者である日本人までそんな歴史観を持つ必要はあるまい。
 「原爆許すまじ」も奇妙な言葉だ。まるで原爆が自らの意思で爆発したかのような表現だ。強盗にナイフで殺された人の遺族が「ナイフ許すまじ」と言うだろうか。非難されるべきなのは原爆ではなくアメリカによる戦争犯罪だ。GHQに迎合し続けるからこんな変な表現しかできなくなっている。
 勿論今更アメリカを咎めたい訳ではないし賠償請求をしようとも思わない。これは対外問題ではなく国内問題だ。過去は「水に流して」未来志向であるべきだ。しかし歪められた認識を訂正することが必要だ。アメリカは正しく原爆投下も正しいという狂った認識を改めなければ、今後アメリカがどこかの国に核攻撃をすることも正しいという困った理屈に繋がりかねない。
 昔「西側の核兵器は侵略のための極悪の凶器だが東側(共産圏)の核兵器は平和のために必要だ」と訳の分からないことを言う進歩的文化人がいたが、核兵器はイデオロギーとは無関係に絶対悪と位置付けるべきだろう。国際問題を戦争によって解決すべきではないし、たとえ戦争になってもABC兵器(Atomic,Biological and chemical weapons)を使うべきではない。

一過性

2015-11-05 10:31:20 | Weblog
 台風は必ず通過する。だから一定期間耐えていれば問題は解決される。しかし一年中吹き荒れる場所に住むためには全く違った対策が必要だ。地下に都市を築くようなことまで考える必要が生じる。
 日本は四季に恵まれている。冬に耐えれば春になり、夏に耐えれば秋を迎える。気候の問題は時間が解決する。このことが日本人の精神風土になってしまった。困った生徒がいれば卒業するのを待つ。理不尽なクレイムにも詫びて鎮めようとする。問題は先送りする。このように、雄々しく立ち向かうことよりも波風を立てないことが美徳とされた。しかしこんな対応が有効であるのは一過性の問題の時だけだ。放置すれば拡大する類いの問題に対処するための方法ではない。
 人体には自然治癒力が備わっている。だから医師はその場凌ぎをしていれば良かった。咳が出れば咳止めを、頭痛があれば鎮痛剤を処方していればその内、自然治癒力が働いて健康になる。日本の医師はそれが治療だと思っている。だから老化に対しても同じように対応する。関節痛には痛み止めを、便秘には下剤を処方する。しかしこんな対症療法では治療できない。老化には自然治癒力が働かないから、薬が無ければ生活できない薬物依存症患者を大量に作り出すことになる。現在の老人の大半が薬漬けになっているのは医師がデタラメな治療をするからだ。薬漬けになれば当然その副作用に苦しめられる。
 薬は「楽にする草」と書く。元来は薬草の意味だ。しかし楽にすることには二種類ある。完治することと苦痛を感じなくすることだ。この全く異なる二者が今尚、区別されていない。傷口を塞がないまま痛み止めを処方するような愚行が横行している。究極の対症療法はモルヒネ中毒だろう。痛みも苦しみも感じないまま命を失う。
 老人の膝の痛みに有効なのは鎮痛剤ではなくリハビリだ。膝の軟骨は擦り減る一方であり手術しない限り改善されることは無い。しかし膝の周辺の筋肉を鍛えることなら老人にも可能だ。筋肉がクッションの役割を果たせば膝の機能が回復する。
 一過性でない病気の治療こそ真の医療だ。老化や先天性異常などに一時凌ぎは通用しない。苦痛を緩和するだけの対症療法ではなく、治療をする医療が必要だ。リハビリ以外に食生活の改善や軽スポーツなどが有効だろう。但しこれらは医学ではない。医師は病気についてしか学んでおらず健康については何も知らない。医学(=病気学)ではなく「健康学」こそ必要だ。

一般論

2015-11-05 09:52:27 | Weblog
 大学生の時、私は哲学と心理学の二股を掛けていた。心理学科の学生の心理学のレポートを代筆することもあった。ところが途中から心理学に対する興味を失った。当時の心理学が実験心理学に偏っていたからだ。実権心理学ではこんな考え方を採っていた。「90%の人が同じ行動をする」=「90%がそう行動するという法則が成立する」私はこれに納得しなかった。これを偽科学だと考えた。もし落下物の10%が万有引力の法則に背くなら法則そのものを見直す必要がある。世界中の科学者が10%の異常現象の解明に乗り出すだろう。「90%正しい」で満足している限りそれは科学たり得ない。しかし精神病理を扱う異常心理学以外では例外の10%は無視された。当時は科学信仰の時代で人文学も社会学もそれぞれが人文科学や社会科学と名乗り似非科学を目指していた酷い時代だった。
 こんな思い出話を書くのは医学がこれと同じ問題を抱えているからだ。安易に数値化することによって偽科学になっている。統計処理をして数値化すれば科学を装えると思い込んで原因追及を怠っている。
 感染症と栄養においてはちゃんと原因にまで辿り着いている。この病原体が原因でこの感染症が起こり、この栄養素が不足すればこんな症状になると因果付けられている。しかしそれ以外についてはデタラメだ。血圧が高ければ降圧剤、下痢をすれば下痢止めが処方される。原因を問わない。
 先日WHOが「加工肉を1日50g食べれば癌に罹るリスクが18%高まる」と発表した時に私が憤ったのはこれが科学の仮面を被った偽科学だからだ。根本的な間違いは10月28日付けの「肉」で書いたので改めて書かないが、医学の名の元でこんないい加減な発表が相次いでいる。ここ数年だけでも清涼飲料水やお茶やコーヒーなどが病気と関係付けられている。これらの馬鹿げた発表を真に受ける人は余り多くないが、40年ほど前に「コゲを食べたら癌になる」と発表された時の影響は大きかった。多くの人が焼きおにぎりや焼き魚の皮を食べなくなった。ご飯のコゲや魚の皮などの本来利用できる筈の食材が有害物として廃棄された。その後の研究で、毎日コゲをバケツ一杯分食べない限り有害にはならないことが分かったが、今でもコゲを嫌がる人が少なくない。全く人騒がせな発表だった。
 加工肉の話に戻ると、加工肉と一括りにしている時点で科学ではない。肉の加工方法は様々であり添加物はそれぞれ異なるし、材料にされる肉の質も部位も異なる。こんな違いを全く考慮せずに「加工肉でリスクが高まる」などとは科学以前だ。これは「豆に毒性がある」と発表するのと同じようなレベルだ。実際に一部の豆には毒性がある。10年ほど前に「ぴーかんバディ!」という番組で「白いんげん豆ダイエット法」が紹介されたところ大勢が食中毒を患った。これは加熱が不十分だったために起こった事故であり、このことを根拠にして「豆は毒」と一般化することは正確性を欠いている。世界中を探せば発癌性物質を含有する加工肉が見つかるだろうが、これを根拠にして「加工肉で発癌」と発表することは「豆は毒」と同様、乱暴過ぎる一般化だ。

図書館

2015-11-03 10:29:19 | Weblog
 アメリカのPLAYBOY誌が来年の3月からヌードグラビアをやめると発表した。たとえ質の高いグラビアであっても、ネット上に無数に氾濫するヌード写真に勝てなかったということだろう。ソロのアイドル歌手がAKB48に負けるのと同じような話だが、有料と無料の対立という構図でもある。
 昔の図書館の蔵書は大半が古い本で古本屋と同じような匂いがしたものだが、最近は新しい本が充実しているらしい。人気作品を複数揃える「複本」というやり方も普通に行われているようだ。この現状に対して出版社や作家が、新刊書を1年間貸し出ししないよう求めているそうだ。
 そもそも図書館はなぜ本を無料で貸し出せるのだろうか。それは税収によって運営されているからだ。書店も含めた住民からの税収があるからこそ無料で貸し出せる。こんな事業は民間では行えない。
 もしロードショーで公開中の映画を自治体が無料で公開すれば、映画館は急遽公開を打ち切るだろう。新刊書の貸し出しはこれと同じことではないだろうか。もし自治体が住民サービスとして大量の無料送迎車を提供すれば、民間のバスもタクシーも撤退するだろう。商売にならない。これらは官による民業の圧迫だろう。
 公営図書館は税収があるから安易に「住民サービス」という言葉を使うが、このことによって著者・出版社・書店の収入は確実に減る。お役所は書類1枚の発行でさえ有料なのになぜ本の貸し出しが無料なのだろうか。これは最早嫌がらせかいじめのようなものだ。大体CDやDVDでさえ認められている著作権がなぜ図書館の「著作」には適用されないのか納得できない。図書館か利用者が著作権料を負担すべきだろう。
 私は図書館の存在を否定しようとは思わない。棲み分けが必要と考える。現在書店で販売している本を無料で貸し出すことは営業の妨害であり、図書館は今書店では扱っていない本を中心にして貸し出すべきだろう。
 書籍は毎年約8万点が新刊され約8億冊売れているらしい。どんな巨大な書店でも新刊書の総てを揃え切れないし、旧刊書ならロングセラー以外は扱い切れない。書店は新刊書を中心に品揃えをし、図書館は旧刊書を中心とすべきだろう。
 私自身は、本は買うべきものと考えている。新刊書であれば書店で、旧刊書の大半はネットで購入している。読んだ後で手元に残すのは半分以下で、残りは古本屋に売る。売値は1割以下にしかならないから購入費の半分以上が無駄になるがそれで構わないと考えている。購入者がいるからこそ出版文化は成り立っているからだ。本が売れなければ新刊書など出版できなくなる。言い方が悪いかも知れないが、借りて済ませることはタダ乗り(フリーライダー)ではないだろうか。著者や出版社の労に全く報いていない。共有できるという意味で図書館という仕組みは素晴らしいが、それが出版文化を破壊するものであってはならない。

老人医療

2015-11-03 09:40:50 | Weblog
 風邪をひけば発熱する。発熱は不快だが、これは自然治癒力の発動だ。夏に風邪が少ないのは風邪の原因になるウィルスが熱に弱いからであり、発熱によってウィルスの活動を抑え、同時に免疫力も高められている。解熱剤を使えば感覚的には楽になるがそのことによってウィルスにとっても生存し易い環境を作ることになる。私は余り我慢したがらない質(たち)だが、ウィルスとの我慢比べであれば喜んで耐える。
 通常なら高熱を招く筈の肺炎などの感染症に罹っても高熱を出さない老人がいるそうだ。これは自然治癒力が劣化して抗病原体反応である発熱ができなくなっているからだろう。そのために重症であっても見逃されることがあるそうだ。
 老人においては自然治癒力そのものが劣化している。だから自然治癒力に頼り切った医療では治療できない。老人のための医療が必要だ。若い人の関節痛であれば、鎮痛剤で痛みを抑えている間に自然治癒力が働いて治るが、老人の関節痛は関節の軟骨の劣化だから自然治癒力に頼れない。鎮痛剤で痛みを誤魔化していても鎮痛剤の効き目が切れれば治療前よりも悪化して再発する。
 関節は使い減りするが、老人でも筋力強化は可能だ。関節周辺の筋肉を強化すれば関節の負担を減らすことができる。関節の老化を防ぐことはできないがリハビリによって筋力が強化されれば運動機能は改善される。
 藪医者よりも老人のほうがこのことを知っているようだ。屋内プールはまるで老人のためのリハビリ施設のようになっている。筋力を鍛えて関節痛を克服しようとしているのだろう。
 頑固な老人は医師から老化現象と言われると怒るそうだ。それは老化であれば治らないという意味になるからだ。こんな老人に迎合して変てこりんな病名が次々と捏造されているがこんなその場凌ぎは慎むべきだろう。
 現代の医療は自然治癒力に頼り過ぎている。だから自然治癒力に頼れなくなれば匙を投げる。自然治癒力に頼り切ってしかもそれを自覚していないから不治の病として諦めている。
 自然治癒力に頼り切った対症療法を誤りと認めてて原因療法に目覚める必要がある。自然治癒力で治らない時こそ医療の出番だろう。これまでの医療は余りにも「いい加減」だった。病原体を倒すこと以外は自然治癒力任せだった。だから自然治癒力に頼れなくなるとお手上げ状態だ。栄養学などからも学んで、原因に正しく対処する新しい医療が求められるべきだろう。